随想

ミスター・ネクタイ

菅 禮子

  鏡を見ると、シミだらけの顔をしている。かつての瑞々しく若々しかった面影は見るべくもない。人間というのは老いるものだということをしみじみ感じながら、ふとテレビの画面を見やると各党の候補者が来る参院選にあたっての政見放送をやっていた。おとなしく生真面目そうな顔が入れ替り、立ち替り登場してくる。中にはかつて銀幕の花形として、一世を風靡したひともいるが、そこには美男俳優として、全国の乙女たちの胸をときめかせた面影はすでになく、それぞれがそれぞれの踏み越えて来た歴程を大なり小なりに、その顔に刻んでいる。そういう容貌の老いの相を観るのは辛いなァと思っている内に、その方々の締めているネクタイがふと眼に入った。
 一口にネクタイと言ってもさまざまある。
 そのネクタイがご本人自身の人間性、その人生に対する方向性を顕していると、思うのだ。
 中には燃えるような情熱と闘志を表現したような真赤な巾広のをぶら下げている人。スーツの上衣の鼠色とほとんど変わらない、くすんだ色のネクタイをしめて、ボソボソと、可もなく不可もないような意見を述べているひと。それらのネクタイの色、柄、巾、長さは千差万別である。
 

 「お!これは」と思うようなのには、めったにお目にかからないが、強いてあげてみると、テレビ番組「新婚さんいらっしゃい」の司会者“桂文枝”師匠、往年の野球名選手、“落合博満”氏は、上衣の服の色にマッチしていて佳かった!
 ネクタイそのものに罪はないのである。
 それを首にぶら下げている人によってネクタイは生きるか死ぬか、値打ちが決まるのだ。それがテレビの画面に映し出される政見放送ともなれば、ネクタイだからと言って、仇やおろそかには出来ない。テレビの画面の中でミスター・ネクタイを選出するとすれば皆さんは誰を選びますか?やはり安倍総理と言えまいか?その時総理は濃紺のスーツに水色のワイシャツ、金色の太めのネクタイをしておられて、重厚さと気品にみちていた。
 これはあくまでわたし個人の選択で、けっして権力者への憧れとか、へつらいではない。
 全国の視聴者がだれをミスター・ネクタイとして選ばれるか?興味津々である。

 それも、それが一国の指針、方途、さらには命運を決するともなれば、仇やおろそかに、たかがネクタイと言ってはおられまい。もし毎度首にぶら下げるそれが、ご本人でなく、夫人が選んでいるともなれば、女性の責任は重い!センスを磨くべきは、我々女性ということになろう。