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孤高の人 |
酢屋 潔 |
孤高の人の表題を見て読者は哲学者か行者のような人を想像されるでしょうが私がこれから書こうとしているのは登山家、加藤文太郎のことである。彼の名は少しでも登山をかじった人や郷里兵庫県の人には知っているだろうが一般には余り知られていない。 |
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新田二郎の文から抜粋すると、「このアイディアのヒントは」「吹雪の雪洞の中で思いつきました」 加藤は、鉛筆で雪洞の絵を書いて、そのときのことを説明した。「いつしか吹雪がやんで、外に出ると丸い月が出ていました」「加藤君、君のアイディアはすばらしい。天才的着想といってもよい。しかも実現性のある考えだ。ディーゼル機関の将来に新機軸を与えるものであるといってもいい」 立木海軍技師はそこで言葉を切って、「これを実用化するには更に綿密な設計と実験がいる」と言った。 この提案により彼は若くして技師に推薦された。 技師と言えば大学を卒業した人でなければ当時はなれなかったのに小学校出の加藤文太郎の若くしての技師就任は当時としては破格のものだった。 さて、話を登山に戻すと、彼が遭難にあい命を落としたことに対し色んな論評が述べられている。 七日から始まった二人の捜索では北鎌倉と槍の穂の間、天上沢側の雪庇の下に雪洞の痕と甘納豆の缶などを発見、再び槍に戻って行くアイゼンの痕が槍の穂の直下で消えていたことなどから、千丈沢側に滑落したという結論を出した。そうして二人を探し出せないまま十七日で捜索は打ち切られた。二人の遺体が発見されたのは北鎌尾根の末端、P2直下の天上沢側であった。 この遭難について最も影響の強かったのはやはり、新田二郎の「孤高の人」だったろう。この小説では文太郎が余り気が進まなかったのに吉田富久の強引なすすめにより参加したことになっているが、之に対し反論もある。遭難の二十七年後夫を失った加藤花子さんの思い出話がある。 最後の登山に吉田様と約束が出来てからは、登山の準備に余念がありませんでした。彼は山男の美しい友情についてよく話していました。彼の遭難後しみじみとその言葉を身をもって体験させて頂きました。 加藤夫人が吉田様を恨んでいる、というようなことだけは文面からしてもなさそうだ。 それどころか彼女は「山男の美しい友情」とか「山友達」とかを強調している。だから新田二郎の小説「孤高の人」のように、気が進まないが強引な勧誘により参加したことはなさそうだ。山友達を強調することが「単独行」とそぐわないという話は、単独行をあまりにも強調したことにならないだろうか。 人はなぜ山に登る、という声に「そこに山があるからだ」という言葉は余りにも奇知のある、うがった言葉ではないか。 私は研ぎ澄まされた達成感の中に山登りの魅力の一端が見えるような気がする。 |