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「坂の上の雲」雑感 |
酢屋 潔 |
「坂の上の雲」がNHKで放映されたので、改めて昔読んだ本を読みかえしてみた。この本の発行日は昭和四十五年だから四十年近くの歳月が経っている。 |
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好古の故郷、伊予松山というところは領内の地味が肥え、物実りがよく、気候が温暖で、しかも郊外には道後の温泉があり、すべてが駘蕩としているから、自然、ひとに戦闘心が薄い、と司馬遼太郎も書いている。気持が大らかなのである。 つまり戦闘心はあるが、それを大らかさでつつんでいるのである。 秋山好古もそういうタイプの豪傑だったように思う。 ところで、司馬遼太郎はどのような思いでこの小説を書いたものだろうか。 この作品の執筆時間が四年と三ヶ月かかった。そして執筆期間以前の準備時間が五ヵ年ほどあった。 書き終えた時、夜中の数時間ぼうぜんとしてしまった。 頭の中の夜の闇が深く遠くその中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった。この十年間はなるべく人に会わない生活をした。明治三十年代のロシアのことや日本陸海軍のことを調べる作業に前半は苦しかったが後半何事かが見えてきて、作業が少し楽になった。 取材にあたっては熱心のあまり大分人に迷惑をかけたことを悔いている。日露戦争の取材には参謀本部編纂の「明治丗七八年日露戦史」全十巻を参考にしようと思ったが全然使用にたえなかったという。時間的経過と算術的数量だけが書かれているだけだった。なぜこのような本が書かれたかと言えば論功行賞のためだった、という。戦後の高級軍人に待っているものは爵位を受けたり昇進したり勲章をもらうことであった。 海軍の取材にあっては大分苦労があったらしい。海軍も軍令部編纂で官修戦史を出しているが陸軍のそれよりも資料価値は高かったという。只困ったことに彼は海軍の事については全然わからず特にネーヴィの気分というものがわからなかった。そこで父上が海軍士官として日露戦争に従軍し、御当人も海軍軍人で海軍大学校を出たという人を探してその教示を受けた、ほどの熱の入れようだった。 司馬遼太郎は先にも書いたように陸軍に籍をおいていたので軍の教条主義、形式主義、精神主義であることを身を以て感じていた。又太平洋戦争が何うしてはじまったか、に対しても総帥権問題を通じて批判を強めている。陸軍がこの統帥権を振りかざして太平洋戦争に突っ走ったかは、日露戦争の統帥権を論ずる中で言外に論じている。 ともあれ、私達は司馬遼太郎のお陰で忘れ去られている日露戦争というものを体感出来るのである。不朽の名作と云うべきだろう。 |