随想

秋建時報の思い出

藤原優太郎

 一人のご老人と最初に会ったのは1992年(平成4年)、今から22年前だった。建設省(現国土交通省)東北地方整備局・森吉山ダム工事事務所から依頼を受け、『森吉山麓風土記』というダムに沈む村々の記録をまとめる仕事が自分に任された時のことである。
 その中で「ふるさと森吉を語る」章立てで、「前田村小作争議の顛末」を聞き書きしたのが旧前田村在住の藤嶋岩雄さん(旧姓徳永岩雄・当時92歳)という方であった。
藤嶋老人とは奇しくもその後、『秋田県建設業協会60年史』をまとめる仕事で再び取材をする機会があったが、前田村(旧森吉町・現北秋田市)の小作争議は昭和の初め、前田村五味堀で勃発した大騒擾事件であった。当時の農民運動を指導していたのが可児義雄で氏亡き後を継いだのが藤嶋さんで、当時は全農や社会党の書記局にいたという。
 一大騒擾事件の舞台となった五味堀に残っている可児義雄の記念碑はのちに藤嶋さんを主宰とし、苦しみを体験した農民たちの手で建てられたものである。小作争議が終結したあと五味堀にあった争議団事務所の建物は最後の指導者であった藤嶋岩雄さんに提供され、小又川流域の細越に氏の住宅として再建されたものという。ぼくが取材に伺ったのはこの家であった。建物には農民たちの魂が込められ、入口の事務所スペースには難しそうな書籍がたくさん並んでいた。

 藤嶋老人と二度目にお会いしたのは、翌平成5年であった。社団法人秋田県建設業協会が60年記念史を発刊するに際し、その編集のお手伝いをした時のことである。同記念史に「座談会/戦時下の土建業界を語る」という一項が設けられ、戦前の同協会事務局長を務められた藤嶋さんに、鷹巣町(現北秋田市)の旅館でいろいろなお話を伺った。座談会には当時の協会副会長の酢屋潔さんと協会次長(当時)の鈴木義広さんも同席していた。

 藤嶋老人は、明治33年福岡県の生まれ。昭和8年に秋田に来て以来、前田小作争議の後始末をしたり農業組合の指導などをしていた。昭和14年、当時の秋田県土建協会北林庄作理事長の知遇を得て同協会に奉職。2年半にわたり統制強化された多難時代に、協会の事務局長として業界発展のために持ち前の旺盛な行動力をもって尽力した。
 昭和15年、業界に新風をもたらした「秋田県土木建築工業組合」設立に当たっては北林理事長のもとでその創立準備から設立認可に至るまで有資格者の統合、官庁との折衝、また認可後の組合出資払込など難しい事務を的確に処理した手腕は誰しも認めるものであった。その頃の協会や藤嶋さんの活躍ぶりは60年史の座談会の項に詳しく載せられているのでぜひご覧いただきたい。
 藤嶋さんに二度お会いしたあと数年も経たないうちに亡くなられたという報せを受けた。戦前から戦後にかけた動乱の時代、若き戦士として日本のみならず、協会から派遣され中国張家口まで行って働いたという。もっとたくさんのお話を伺いたかったのだが、それは叶わなかった。

 『協会60年史』を編纂した折、事務所に眠っていた膨大な資料となる「秋建時報」の古いタブロイド版新聞を見せられ、秋田県の土木建築の歴史を垣間見ることができたのは、自分自身の知見を広める意味で非常に貴重な体験となった。その後、「随想」や「秋田県土木建築の近代化遺産」の執筆ページを当たられたことは自分の生涯の宝として残された。
 秋建時報が最終版を迎えると聞いて、偉大な先人たちの足跡をたどり、その人物像を窺い知ったことはまさに僥倖といえる。
 長い間、本当にお世話になりました。厚くお礼を申し上げ、これからの協会のますますの発展を願ってやまないものである。ありがとうございました。