随想

一匹のカエル
人間は社会の部分品であってはならない


菅 禮子

 「えーここに一つの小さな水たまりがあったとします。まあそれが池でも、沼でもいいのですが……」と言う言葉ではじまったK.T.先生の第一声──その時教室の壁をゆるがせてひびき渡ったのは、箸がころげてもおかしい年頃の乙女たち百数十名の大爆笑でした。
 先生のお声は、あまりにキイの高いボーイソプラノだったのです。それだけではありません。広い額の下の大きくまるい二つの瞳は見事なロンパリ即ち同時に左と右を見ているのでした。ひょろりと細長い華奢な首の上にのっかったその顔と声は、まさに今、宇宙から地球上に降り立った火星人といった感じそのもの──。一方の片隅で笑いが納まると、また別の片隅の一かたまりがドウッと吹き出すといった具合で、笑い声はなかなか鎮まりません。わたしは少し心配になって来ました。その日新任の教授どのの初講義ということで、二クラス合同で集まった学生達は、期待に胸をときめかせていたのですが、もうその期待も、教授の肩書も吹き飛ばして笑いのめす乙女たちの傍若無人ぶりに先生は、きっと怒ったかも……それとも恥ずかしさに打ちのめされて立ち往生しているのでは……? 現に先生は第一声を発したまま、講義をつづけられないでいました。うつむいて、なるべくそのお顔を見ないようにしていたわたしは(だってわたしだって吹き出さずにはいられなかったのですから)おそるおそる顔を上げて、その人の方を見やりました。すると、その哄笑の渦の中にあって、先生は少しも動ぜずに、ご自分もさもおかしそうに笑っておられたのです。わたしは思わず目を瞠りました。胸が高鳴りました。それはとても次元の高い、これまで一度も出会ったことのないすばらしく高貴な値打ちものが、わたしの胸中に流れこんだ瞬簡でした。ようやく笑いの鎮まった教室でつづけられた生物学の初講義の一言一句は、その衝撃的な出会いのせいか、今でも全文暗唱できるほどわたしの胸の中に刻みつけられています。
 「その水たまり即ち池にある日一匹のカエルがやって来ました。カエルがそこに棲みつくには、池の深さ、広さ、水温、水質、まわりの草や樹、虫や魚や鳥などの生物、それらの環境が、カエルの生活の条件にあわなければなりません。カエルは棲みつきました。
 これを生物学では“適応”と言います。やがて次の年、別のカエルがやって来て、池にはカエルが十匹になり、毎年カエルは増えていって、とうとう百匹になりました。春になると毎晩カエルの大合唱があたりをゆるがせたのです。ある年、カラスの大群がやって来てカエルは六〇匹に減りました。またしばらくたってある年、疫病がはやり、カエルは三〇匹になりました。そしてまたしばらくたってある年、百年に一度の日照りのため、池はカラカラに干上がってしまいました。ひからびて死んだもの、他の水たまりを目指して、あてのない旅に出たもの、さまざまの中で、そこにはとうとう一匹のカエルもいなくなりました。これを生物学では“自然淘汰”といいます」
 それから終戦までの数ヶ月、朝鮮半島の首都京城(ソウル)は清涼里の赤煉瓦の校舎で、日本の敗色濃い苛烈な戦局、生命の瀬戸際の刻々を、あの時ほど寸暇を惜しんで勉強に打ち込んだ日々は、これまでのわたしの生涯に二度とありません。

 防空壕を掘り、食糧増産のための農場作業、軍用機のエンジンの絶縁体に使う雲母原石の加工作業、もうほとんど学課の時間は削られて、中間テストも期末テストもないといった状態でしたが、それでいて点取りでない、真の学問の世界に目を開かせられた希望と歓びにみちた日々でした。飢じさも、激しい作業疲れも、敵機襲来の恐怖も、一つの目的を得て燃え上がった向学心の前には問題ではなかったのす。それはみなK先生の優しく、熱意にみちた教えのお蔭でした。先生の斜視(ロン・パリ)は長年の間、左眼で顕微鏡をのぞき、右の眼でスケッチしたためだということがわかり、学生達はみな畏敬の眼で先生を仰ぐようになりました。それは昭和20年、終戦間際の夏のこと、沖縄に米軍が上陸、本土は空襲で焼かれ、この次の米軍上陸は朝鮮半島かと噂されていた頃、いつもざわざわしていた生物教室は、わたしのほか誰もいませんでした。先生はたった一人の生徒を相手に講義され、さしむかいにわたしはそれをノートしていました。そこは三階建ての赤煉瓦の校舎の二階の一番端の生物教室でした。窓の外は真っ青な空に積乱雲が湧き立ち、先刻、敵機の攻撃を避けて、どこかに避退したと思われる味方の軍用機が翼を連ねて轟々と帰って来るところでした。少しの間、言葉をとぎらせ、茫とした瞳で窓の外をみやっていた先生はやがて語を継ぎました。「もし、敵が半島に上陸して来たら元重機銃部隊にいた僕は真先に半島防衛のために召集されるでしょう。その刻はいさぎよく戦って死にますよ。しかし……」ちょっと声をのまれ、やがてきっぱりとした口調で言われました。「しかし貴女たちはどんなことがあっても生きて下さい。生きてそしてなんでもよいから次の代に伝えて下さい。僕と共に学習した草花や虫の生きる姿、いつか星についてお話しした宇宙の神秘や、仏像に伝えられた美の伝統、学のひろやかさ〜なんでもよいから次代に伝えて下さい」 国の為に戦って死ね!と教えこまれた私たち……その中にあって「生きよ!」と説かれたその言葉はあまりに鮮烈であり、かつ奇異でさえありました。「自分は戦って死ぬが、君たちは生き残れ!」とはなんという科学者としての勇気と英知、真実と愛に溢れた言葉だったことでしょう。戦後、「これまでのことはみなウソだった」と永久の大義を、玉砕を説いた口を拭ってぬけぬけという大人たちの中で、わたしが人間不信に陥らずにすんだのは、あの刻の先生の「生きよ」というひと言のお蔭だったのです。
—終わりに、先生(菊池立身)の著書『現代科学の生命像』のはしがきの一部を紹介させていただく。「原子力の火でスイッチをひねれば電灯はつくし、胃の調子が悪ければ、医者や薬屋にいけばすむと思っている。(略)科学は利用すればよい、われわれは部分品となっていきていればよい。それ以上のことは専門家の仕事だと、ともすれば考えがちである。しかし人間は社会の部分品であってはならないのである。人間はいつも人類の過去、現在、未来について真剣に考える姿勢を失わずに、日常生活に打ちこむべきではないだろうか。人間が自分の社会の建設のために真剣に考えるような社会では、すべての人が考えるための多角的な学習を、また綜合的にものを見、自分専門の考え方を確立するためにいろいろな学習をするべきではないだろうか」
(菊池立身著『現代科学の生命像─生命・人間・進化─』1969 法律文化社)