随想

日本の秘境、秋山郷


藤原優太郎

 長い間、心の隅に引っかかっていた、憧れの地である信越国境の秋山郷にようやく行く機会を得た。
 「秋山郷」は信濃川の上流、千曲川の支流である中津川の中上流地域にある山里で、新潟県と長野県にまたがり、越後秋山と信濃秋山、二つの地域に分けられている。長野県側は3・11震災の翌朝、長野北部大震災が勃発し大きな被害を蒙ったところで、JR飯山線が通る栄村の奥地にあたる。秋山郷へ行くのに最も便利なのは、飯山街道の新潟県津南町から中津川渓谷沿いの険しい道をたどり、県境の大赤沢峠を越え、苗場山(日本百名山)と鳥甲山にはさまれた深い谷間に至るものである。信濃秋山郷は中津川の渓谷を見下ろす急傾斜や谷底に幾つかの集落が点在する。まるでネパール、エベレスト街道のナムチェバザールを彷彿させる。
 秋山郷は、江戸時代からすでに平家の落人が開いた秘境として知られ、江戸後期の文政11年(1828)に、越後塩沢町(現新潟県南魚沼市)の織物商人鈴木牧之(ぼくし)が秋山郷を訪れ、『秋山記行』でこの秘境を詳細に記録した。
 その紀行文では、当地の人々の暮らしぶりや古老の語りなどが詳しく載せられているが、何より興味深いのは、牧之と秋田マタギが出会った時の聞き書きである。
 
 ぼくが『秋山記行』を読んでもっとも興味をひかれた部分である。江戸後期から明治にかけ、旅マタギと称する阿仁(根子)のマタギが遠く信濃の山奥まで足を延ばし、そこに住み着いて所帯を持ったという事実には驚かされる。
 秋山といえば、カモシカや熊などを狩る伝統的猟師が活躍した場として名高い。秋田マタギは落とし穴のような罠猟を伝達し、熊やカモシカなど獣の猟ができない時は、奥地の魚野川や雑魚川の源流でイワナ漁をし、それを背負って運び上州の草津や奥志賀の温泉場に売って生計を立てていたという。
 マタギという狩猟集団は東北各地にいたが、山形県小国町や新潟県三面などにも阿仁マタギの足跡が色濃く残されている所は多い。秋山もそうした渡りマタギの活躍の場であったのだろう。秋山郷最奥の切明の宿で、牧之が秋田マタギと話し合った時、話す言葉に秋田の訛りなどまったく感じず、詳しく猟の話を聞くことができたという。

 秋田県阿仁地方、根子などに流れ着いたマタギの先祖はもともとどこからやって来た人たちだろうか、そのことが今、自分のいちばん興味ある研究テーマである。ぼくの考えでは、マタギという狩猟集団は本来は裏社会に暗躍した「忍び集団」ではないかということだ。信州から秋田の山奥に流れ着いた一族が、その後、旅マタギとしてふるさと帰りをしたものではないだろうか、という推理小説の題材になりそうな謎を解明してみたいものだ。

 

 


 想像を絶するような深い峡谷の急斜面を切り開き、そこを生活の場とした秋山郷の先人たちではあるが、稲作や畑作もできない奥深い山里で焼畑農業を行ない、粟やヒエを作り、それを米代わりに食べていたという。米を口にできるのは病人か正月(手に入れることができればの話だが)ぐらいであった。

 3・11三陸大津波の翌朝、長野県北部の栄村を襲った震災が世の人々の口端に上ることはあまりなかった。震災の直後、テレビで報道される栄村の惨状や、日本一の積雪量で有名な津南町や栄村のルポ番組を見ても、何か自分に役に立てることはないだろうかと心を痛めていた。
 
 この7月、秋山郷探訪を計画した一番の目的は日本百名山の一座である苗場山に登ることであった。かなり前から気になっていた山である。
 前述の鈴木牧之が越後塩沢から案内人を伴って苗場山に登ったという記録もあった。山頂周辺が広い湿原になってまるで稲田のような光景であることは有名である。
 しかし、山はその平坦な広がりだけではなく、そこに至るまでの険しい登りがほとんど記述されていない。本当に易しい山の印象があるだけであった。今回初めて登ってみて、苗場山の本質を垣間見る思いを強く持った。残念ながら天気が悪く、全山濃霧におおわれ、広大な苗場を見ることはできなかったが、信越の境にこんな素晴らしい山があることを知っただけで大収穫だった。
 秋山郷で泊った宿は、苗場荘という民宿で、江戸時代、鈴木牧之が泊った家として知られる。米を作るような平場など少しもない山峡の宿に、ぼくはお土産として秋田米の「あきたこまち」10sを持ち込んだ。若いおかみさんはとても喜んでくれた。宿で提供されるご飯は雑穀米やきびご飯などで、今ではその方が喜ばれるという。肉類は熊や鹿の肉が美味しく、イワナの骨酒など絶品である。
 秋山郷、これからも折をみて訪ねてみたい自分自身の桃源郷だとつくづく思ったしだいである。