随想

もと新聞中毒者のひとりごと


永井登志樹

 いつだったか東京で電車に乗ったら、向かいの席に座っていた6人のうち、1人のiPad所持者以外は、全員が本を読んでいたことがあった。たぶん偶然だったのだろうが、これは不思議な光景だった。これをもって、紙の本の優位性を言うつもりはない。それよりも、あらためて日本人の読書好き=文字好きに思いが及んだ。
 現在、電車の乗客の行動形態で一番よく見られるのは、スマートフォンなどの多機能型携帯電話でインターネットのサイトを見たり、ゲームをしたりしている人だが、メールを読んだり打ったりしている人の割合もかなり多い。日本では電車内で携帯電話での通話を制限されているせいもあるが(多くの国ではそうではない)、これも文字を読むこと、書くことが大好きな日本人だからこその光景ではないだろうか。
 ただ、文字を読むという行為に関して、電車の乗客の行動形態を観察していて気づいたことがもうひとつある。それは新聞を読んでいる人がほとんどいないということ。私が東京で学生生活を送っていた1970年代と比べるまでもなく、10年前と比較してもその傾向は顕著だろう。今後、新たな携帯型情報端末が爆発的に普及しても、紙の本がすぐに淘汰されることはないだろうが、新聞はわからない。特に夕刊のタブロイド紙やスポーツ紙。これらを今の10代、20代が中高年になった時、買って読むとはとても思えない。駅の売店での新聞のスペースはこれからますます狭まっていくことだろう。

 ある作家がインターネットのブログに、次のようなことを書いていた。
 「新聞代ってなぜかみんな支払う時に威張るんだよ。ほら、払ってやるぜ!みたいな感じかな。なぜかわからないけれどそうなんだ。あたりまえのように新聞が来ていて、毎日読んでいて、で、新聞代を払う時に急にもったいなくなるみたい。(新聞が届けられるのが)あたりまえすぎるからかもしれない。(中略)いつか新聞は家に届かなくなるんじゃないか。このままだったら、朝、ご飯を食べながら新聞が読める時代は、もう終わるような気がする」
 18歳のころ、東京郊外のある町で1年ほど新聞配達をしたことがある。貧乏学生だったので朝食付きというのが魅力で始めたのだが、上記の文章にあるように集金が大変だった。気弱な私はすぐに集金はやめて、配達だけにしてもらった。その当時、1カ月の給料がいくらだったのか今では思い出せない。おそらくたいした金額はもらっていなかったと思う。
 考えてみれば、宅配の新聞とスタンド売り(キオスク・コンビニなど)の新聞が同じ料金(場合によってはスタンド売りのほうが高い)であることがおかしい。日本の新聞が公称900万とも800万ともいわれる世界一の発行部数の新聞をはじめ、全国紙5紙のほかブロック紙を含む地方紙も大部数を維持しているのは、必ずしも読者の支持を得ているからというわけではないだろう。世界でもまれな専売店による宅配制度の下で大半が売られているためで、宅配制度が崩壊すれば、日本の新聞社のいくつかはきっと倒産するに違いない。

 

 

 


 どうしてこんなこと書いているのかといえば、数年前に購読をやめるまで、ある全国紙を20年以上途切れることなく読み続けていたのだが、自宅に届けてもらうのをやめてから、新聞をほとんど読まなくなったからだ。高校は新聞部、大学はマスコミ関係の学部、ある新聞社の就職試験を受けたこともあるという経歴の持ち主で、新聞を読んでいればどこでも時間がつぶせ、退屈しないという新聞中毒者のようだった私が、新聞と無縁の生活をするようになったのである。
 学生時代に喫茶店でアルバイトをしていた時は、その日の不要になった新聞(店でとっていた一般紙、スポーツ新聞など数紙)をすべて持ち帰り、アパートの一室で一通り目を通すのが日課だったし、ある地方都市に住んでいた時は、仕事を終えてからの帰途、行きつけの飲み屋で新聞を読みながら酒を飲むのが何よりの楽しみだった。一時(いっとき)は、全国紙、秋田と沖縄の地方紙の3紙を同時に購読していたこともある。さすがに読むのが追い付かず、新聞紙がたまるだけなので1年ほどでやめてしまったが…。
 そんな私が新聞を読まなくても平気でいられるようになったのはなぜか? 歳をとって社会的なことに以前ほど関心がなくなったこと、単に読むのが面倒くさくなったこと、紙媒体以外の情報収集で十分と思うようになったこと、いろいろ考えられるが、公平な報道という名の下に、ある思想に基づく印象操作や事実の曲解、読者の声欄に代表される世論操作、虚偽の記事を書いても訂正・謝罪しようとしないそうした(一部の新聞の)報道姿勢、選民意識を持つマスコミ人の傲慢さに嫌気がさしたからかもしれない。
 新聞やTVニュースを公正・中立な立場で客観的な報道をしているというイメージで捉えている人は今でも多いのだろう。だが、インターネットの普及でメディア・リテラシーをきたえられた人々が増えていることは確かだ。特にネットからの情報収集の比重が格段に多い若い世代を中心に、従来のマスコミ観、政治意識がここ10年ほどで大きく変化しているように思う。
 これまで一般の人が自分の意見を不特定多数の人々に発信するためには、ミニコミなど自前のメディアを持つか、新聞・雑誌の投書欄などに投稿するしかなかった。当然既存のメディア(特に新聞)は、そうした意見を取り上げる際に一定のバイアスがかかる。それに比べインターネットでは誰でも情報発信でき、評論家や大学教授などの肩書きにとらわれることなく、その内容だけが評価の対象となる。すぐれたものならニートであれ、新聞の論説委員であれ、その発言は等価だ。
 もはや情報は一握りの特権階級が独占できる時代ではない。旧来のように世論誘導=オピニオンリーダーとしての新聞の役割はどんどん小さくなっていくだろう。100年後、いや50年後にNewspaperが現在と変わらぬpaper(紙媒体)としてあり続けているのかどうか。そのことに危機意識を抱いている新聞人、言論人は果たしてどのくらいいるのだろうか。