随想

“秋田おばこ”と
“薩摩おごじょ”


菅 禮子

  “おばこ”と“おごじょ”── どちらも、その土地の女性のこと。娘という意味が強い。
 いわば日本列島の北の端と南の端の娘──はるかな距離をへだてて、それぞれの地に生まれ育ったおばこの私とおごじょのSさんの二人はどこで出会ったのか?……

 京城女子師範学校尋常科というのは、かつて現朝鮮半島ソウル(その昔は京城と言った)の地にのみ存在した学校で、三千名の志望者から選び抜かれた一学年百名、そのうち六十名が現地人。四十人が日本人だった。
 ここで四年間の修行期間を経て、判任官待遇の小学校教師の資格を与えられる。
 おばこの私は一組の級長(当時は生徒分隊長と呼ばれていた)、おごじょのSさんは二組の級長だったが、しかし、在学中お互い話をすることもなかった。

 わたしが彼女のことを意識したのは、戦後日本本土に引き揚げてからである。それは、かつての級友の噂によると、おごじょ即ち彼女の引き揚げ先は九州南端の鹿児島県、薩摩である。薩摩で母親が心労で倒れた時、おごじょことSさんは十六歳。十人の大家族をひとりで切りまわしたという。
 この話はわたしを痛く感動させた。十人の家族をかかえて家の中を取りしきるなど、すべて親まかせ、女中まかせのわたしには、逆さになってもできない話だった。
 話はとぶが、朝鮮半島から家族と共に引き揚げて、秋田師範に転入した時、今にもぶっ倒れそうな灰色の、古びた木造校舎の中には、あくまで色白く、肌目細かくすべすべした肌、しかも十分に栄養のゆきわたったがっしりとした体格の乙女たちに溢れていて、まさに百花繚乱さながらお花畑という趣だった。
 秋田には“小野小町”という美女代表が存在する。百人一首にも登場している。
 かつて生前の司馬遼太郎さんが『現代に於いて“女性の美しさ”について「○○美人」と名を冠せられるのは秋田しかない』と言われ、また書いてもおられるが、“美しさの代表”としての“秋田おばこ”はさておいて、日本の国でなにかの代表として存在する女性がほかにあるだろうか?

 ここに薩摩の女性達が浮上してくる。薩摩の女たちは、男たちより強かった。その代表的存在として、嫁に履物を揃えさせた島津の奥方がいる。(嫁─閑院宮)
 その権高さ! 神経の図太さ!
 秋田おばこの“美しさ”に対して、これは薩摩おごじょの“強さ”であろう。
 その末裔のSさんがはるばる秋田にやってきたことがある。東大を出た息子さんが秋田の出先(大曲)に赴任したため、身のまわりの世話に訪れたという。
 わたしは“負けた!”と思った。十人の大家族の世話を十六歳でやってのけ、しかも息子を東大に入れたSさん、薩摩おごじょの面目躍如!たるものがある。
 ご子息のお嫁さんとして、いいひとがいるというので、面接にはるばる鹿児島からやって来てついでに旧友のわたしとも会ったのであった。
 折柄、千秋公園の池には蓮の花が咲き、土手はサツキが紅く真っ盛りであった。

 もし、秋田おばこと薩摩おごじょが闘ったとしたらどちらが強いか?…… 美しさのみ取り上げられた秋田おばこだが、存外強いのではなかろうか?──それと……。
 秋田師範に転入したての頃、窓辺に倚った二人のおばこのこんな会話を耳にしたことがある。
「カジンスキーはよォ……」
 知的なものに対する憧れがそこにはあった。
 わたしはその泥臭さを、苦笑と共に聴いた。
 知的となると、ここに会津の女が登場してくる。
 津田梅子、吉益亮子、永井繁子、上田悌子、山川(大山)捨松、この五人は明治四年に政府派遣の留学生として渡米しているが、この中で山川捨松は会津の出身であった。

 ところで、“秋田おばこ”は今後どのような途を選べばよいか──
 “わたしは美人ですよ”と器量におごらずに“美の感覚”を磨くこと。薩摩おごじょのような結集力を持つこと。ユーモアに裏打ちされた豊かな表現力を持つこと。無駄なプライドは捨てること等々。
 要するに真のプライドを持つことだと思うがどうだろう。