随想

ミステリアスな山の民


藤原優太郎

  「山かげは山伏村のひとかまえ」
 芭蕉が近江甲賀(滋賀県)の山伏村で詠んだ一句である。山伏は一定の住いをもたない漂泊者とされ、伊賀と甲賀の山岳武士団にも当てはまり、のちにどちらも影の民、忍びの集団として知られるようになる。
 伝説、あるいは史実にしろ、人煙まれな山奥に潜み、山中で暮らしを立てた者たちは全国各地に隠れ山民として存在していた。それは猟師マタギであったり、椀物を作る木地師であったり、鷹匠、忍び、修行僧、遊芸人であったりした。いずれにしても一定の社会の枠から外れ、隔絶された世界をその行動の範疇とした。
 以前、自著『秋田の峠歩き』に「マタギのルーツを探る」と題したコラムを書いたことがある。その中で、高橋文太郎の『秋田マタギ資料』の中から、マタギの里、根子について次のように引用させていただいたことがある。
 「開村当時は武士の流浪人として狩人(又鬼)となり、鳥獣を捕えて食料に充てていたが、佐竹藩主より狩人を命じられ熊の胆は当時の御製薬所に上納し、傍ら開墾に励み、村の人口も増えた。副業として熊の胆や薬草など薬の販路を多領に求めて行商に出た」。熊の胆を主とした薬商いの行商の旅は樺太、北海道を始め、東北一円、関東、中部方面へ拡大したという。
 阿仁の根子などに見られる非平地民の狩人はどのようなルーツの人たちなのだろうかと深い興味を持った。東北、越後の山奥で生きのびたマタギといわれた人たちは、もしかして裏社会に暗躍した忍びの集団ではなかったかというのが自分の推論である。そこから話を進めてみたい。
 マタギが狩りをする時の唱え言葉は、真言の呪文に通じ山伏修行にもつながる。たとえば、「こっちはシゲノの累、ブンブ気ままに暮らす、ナムアブラケンウンソワカ」という呪文がある。マタギの流儀には、小玉流、滋野(シゲノ)流、青葉流などいろいろあったが、根子マタギは滋野流といい、日光赤城明神からの免許を得て越後の三面、信州の飯田など各地に散ったものと思われる。

 唱え言葉にある「滋野の累」であるが、信州小県(ちいさがた)郡に一定の勢力を持った滋野一族は根井(ねのい)系統であり、秋田県矢島地方にもゆかりを持った。もともと滋野氏は朝鮮百済王の末裔といわれ、のちに海野、望月、真田の三家に分かれる。その海野家の末が「忍者舞台」で知られる真田一族となる。
 ほかに代々、神官系といわれる禰津家は鷹匠の元締めとなり、望月家は武田信玄が抱えた「用間(ようげん)」という間諜(忍び)の中核となった。まさに滋野の係累は地下組織のキー局のような存在であった。戦国時代、このような裏組織の母体となった透破(すっぱ)などは中忍という山の民であった。忍者といえば甲賀者や伊賀者が有名であるが、大名が抱えた忍びの者としては、北条氏の乱破(らっぱ)や越後(上杉氏)の担猿(のきざる)、近江の志能便(しのび)などがあるが、上杉系の越後担猿は生薬を作って売り歩き、のちに富山の薬商人となって現代に受け継がれている。
 俗に影の者といわれたこうした山の民は、真言密教から派生した山伏集団で、山岳宗教をよりどころ、あるいは隠れ蓑にして諸国の山々を渡り歩いた。
 今ここで述べる余裕はないが、近江小椋庄発祥とされる木地師集団にしても、平地社会とはまったく異なる山の暮らしの知恵を身につけていた。いずれにしても、マタギが日光赤城明神、木地師が惟喬(これたか)親王(清和天皇の兄)貴種ゆかりの伝承を有することは、山の民なりの生きのびる知恵があったことは間違いなく、これらが今の自分の研究テーマである。


マタギ免状