随想

飢えの時代

菅   禮 子

 「火垂るの墓」(原作 野坂昭如─新潮文庫)を読んだ。涙が止まらなかった。
 第二次世界大戦の末期、敵機の空襲に家を焼かれ、父は戦地に在り、母は衰弱死という中、頼った親戚は冷たく、兄と妹は山の中腹の洞穴で暮らすようになった。年端のいかない妹は、ひたすら兄を頼り、慕いつつも極度の栄養不良で亡くなる。妹の亡骸を行李につめて火葬した兄もまた、三宮の駅のホームで柱に寄りかかったまま餓死する。駅員が死体を片付けようとして兄の腹巻きの中に見つけたドロップの缶を放り投げると、中から妹の骨のかけらが飛び散り、叢の中から驚いた蛍が二、三十匹点滅しながら飛び交った。……という物語である。現代の飽食の世を生きる若者たちには、恐らくピンと来ないに違いないが、全く戦争末期における大都市の食糧難は言語を絶するものがあった。
 当時わたしが住んでいた京城(現朝鮮半島・韓国の首都ソウル市)も全く同じ状況だったが、幸いだったことは、重工場のある北鮮はともかく、農業主体の南鮮には敵機の空襲がほぼ無かったことである。
 当時、京城女子師範学校本科一年生だったわたしは、その日教室の後方の連絡板を眺めて思わず声をあげた。「まあ、素敵!」そこには明日、日本本土から転入学してくる生徒の名が記されていたのだ。“須磨ふじ子”──と。──「まるで宝塚の生徒みたい」(※宝塚少女歌劇学校)
 当時激化する戦局の中で、日本本土から海峡を越えて敵の空襲のない半島に転入学してくる生徒たちが多かった。
 翌朝、勢いよく教室の扉をあけて「おはよう」と挨拶すると、先着の級友達が椅子に座ったままこちらをふり返って、意味深な目くばせをした。「?」ふと傍を見ると、見慣れぬ生徒が一人そこに佇んでいた。その姿を見たわたしは思わず吹き出しそうになったが、ぐっとこらえた。
 人参のシッポのように結われた髪、広い額の下に思いきり細い眼、瘠せた小さな体、どうひいき目に見ても“タカラヅカ”とは言い難い……己のことはさておいて言わせてもらえば“ちんちくりん”な……それが数刻前まで、胸をときめかせた須磨ふじ子さんとの出会いであった。

 しかし、その容姿でわたしを失望させたふじ子さんは、その日さらにわたしたちを驚倒させたのである。
 それまで二年制だった演習科が三年制の専門学校に昇格、教授陣も調えられて、敗色の色濃い戦局にもかかわらず、教授も生徒も張り切っていた。そのせいか、その日の数学の時間、担当教授はとてつもない問題を出された。「S! 君やってみろ」
とわたしは指名されたが、農場作業や防空壕掘り、航空機のエンジンの絶縁体にする雲母加工作業と、作業ばかりやらされていた身にはチンプンカンプン、てんでわからない。
 「わかりません」予科生時代は一応首席だったわたしが、屈辱に血の昇ったまま立ちん棒をしていると、先生はニヤニヤしながら教室の中を見渡して「だれかわかる者がいるか?」と言われた。すると、その時、たった一人手をあげた者がいた。須磨ふじ子さんだった。彼女は教壇に上がり、チョークでスラスラと黒板の端から端まで数式を並べ、正解答を出して、先生をうならせたのだ。
 彼女が当時、関西一の秀才校と言われた大手前高女の出身であることが間もなく知れ渡った。
 そのうち学校へ往き還りに乗る電車が同じ方向であることがわかって、わたしはふじ子さんと一緒に往き還りするようになった。
 本町通りにある“日韓書房”という書店を買い取った彼女の一家が住む家は、親しい知人もなくぎっしりと並んだ商店にはさまれ、一日一合八勺の配給米を薄くお粥にして食べるという生活の中で、その日その日の食糧に困っている様子は、日に日に瘠せていく彼女の姿から容易に察することができた。
 ある日、わたしは母が丹精した家の前の一坪の菜園から、胡瓜をを三本もぎとり、防空鞄の中におしこんで登校した。その日の帰り、電車の停留場で人気のないのを見すまして後、その三本の胡瓜を取り出してふじ子さんにそっと渡した。おしつけられて胡瓜を手にしたふじ子さんはそれを胸に抱きしめながら言った。「おおきに」細く瞑った眼には、涙が光っていた。
 終戦後、引き揚げたかつての校友たちは日本の全土にバラバラに散ったが、堺市に引き揚げたと人づてに聞いた彼女の消息は杳として知れないままである。