文化遺産
Vol.14
「橋に歴史あり」
JR男鹿線八郎川橋梁

 八郎潟残存湖と日本海を結ぶ船越水道には3本の橋が架かる。河口側から、国道の男鹿大橋、県道の八竜橋、JR男鹿線の八郎川橋梁だ。
 男鹿大橋は江川漁港と河口の間にあるため漁船の往来に支障がないよう、アーチ状の形状で橋下空間を稼いでいるが、八竜橋と八郎川橋梁は船の行き来に配慮する必要がなく、水面上ギリギリの高さになっている。
 今は橋の上流側に防潮水門があって、物理的にも八郎潟残存湖と船越水道の間で船の行き来はできないが、八郎潟の干拓工事が盛んな頃は工事関係の船がここを行き来していたのである。そのために八郎川橋梁には実はちょっとした仕掛けがあった。船が通る時は橋桁の一部がエレベーター式に上昇し、その下を通していた。当然そのあいだは列車は通ることができない。列車本数が少ないローカル線だからできた“荒技”だ。
 今は改修されて名残りはほとんど残っていないが、コンクリート製の橋桁が連なる橋梁のうちの1ブロックだけが鉄製橋桁になっているのが、その箇所である。
 同じように道路橋の八竜橋も、何らかの方法で船を通す構造になっていたと推察される。
 八郎川橋梁の両岸には天王駅と船越駅があり、それぞれ緩いカーブを経て橋梁に差し掛かるのだが、地図で見てみるとこのカーブが微妙に不自然に感じられる。船越駅側から見てみると、駅を出て緩く右にカーブしてそのまま橋梁に差し掛かればいいところを、堤防近くでわずかに左にカーブをやり直して橋梁につないでいる。
 これにも実はちゃんとした理由があって、もともとの八郎川橋梁は今よりわずかに残存湖寄りにあったのだ。ちょうど線路がカーブして自然につながる位置に。
 しかし昭和30年代に入って八郎潟の干拓工事が始まると、船越水道に工事の船を通すのに既存の橋では支障があり、下流側に可動部分のある新橋(現在の橋)を架け替えることになったのだ。
 それを裏付けるように、八郎川橋梁の銘板には、干拓工事が本格化する1963(昭和38)年の完成であることが記されている。
(文・写真/加藤隆悦)