随想

岬めぐり

永井 登志樹

  20代の初めころ、神奈川県の鎌倉市に1年ほど住んだことがあった。そこでアルバイトをしていた喫茶店では、親睦と慰労をかねた日帰り遠足(レクリエーション)を時々行っていて、その行き先のひとつが鎌倉と同じ三浦半島にある観音崎だった。その時に東京湾を航行する船の多様さも含めた数の多さと、暖地生の植物が繁茂する岬の風光に強い印象を受けた。
 いつだったかある高名な学者が、隠居したら観音崎の近くにアパートを借り、東京湾を行き交う船を1日中眺めていたい、と新聞のコラムに書いていた。それを読んで私も歳をとったら是非そうしたいものだと共感を覚えたのも、初めて観音崎を訪れた時の記憶が強く残っていたからだろう。
 観音崎は東京湾の中でも水路が狭まった浦賀水道に面している。岬をかすめるように航行する貨物船、タンカー、フェリー、セーリングのヨット、漁船…、日がな一日それらを眺めて過ごせたなら、どんなに幸せなことだろうか、と今でも思う。
 1970年代にヒットしたフォークソングのひとつに、「岬めぐり」という歌がある。演奏しているのは山本コータロー&ウィークエンド。作詞は「瀬戸の花嫁」や「翼をください」など数多くのヒット曲を手がけている山上路夫で、平易なことばで綴られたシンプルな歌詞のなかに、恋人を失った悲しみと喪失感を漂わせた情感あふれる名曲だ。
 この歌の「岬」とはどこの「岬」なのだろうと、ずっと気になっていたのだが、最近になって三浦半島をモデルにしたと作詞家本人が語っていることを知った。三浦半島には観音崎のほか、剣崎、荒崎、長者ヶ崎などがある。私は四国の足摺岬、あるいは北海道の襟裳岬あたりのことを歌ったのかな、と思っていたのだが、確かに岬がたくさんある半島のほうが「岬めぐり」にはふさわしい。
 私の住んでいる男鹿市も半島だ。だから三浦半島と同じく岬がたくさんあり、岬めぐりができる。生鼻崎、鵜ノ崎、金崎、館山崎、潮瀬崎、天ヶ崎、剣崎、長崎、金ヶ崎、弁天崎、ごんご崎、長久手岬、入道崎、日暮岬、大明神崎、八斗崎…。数えてみたら五万分の一地図に載っているだけでも、16ヵ所あった。
 このうち館山崎は私が生まれ育った集落の西側にあり、母校である椿小学校(平成17年閉校)の校歌は、「館山崎の波青く〜♪」で始まる。作詞は秋田市土崎出身の詩人竹内瑛二郎で、竹内氏のご子息が私の高校時代の恩師であったのも何かの縁だろうか。館山の名から察せられる通り、岬の台地は中世末期の館跡(双六館)だ。敵に攻められた際、城主の奥方が絶崖から海に身を投じて果てたという伝説が伝えられ、「御前落とし」の名が残っている。
 数年前、インターネットでこの館山崎の伝説を検索していて「でんでんむしの岬めぐり」というブログに出会った。自称岬評論家の「でんでんむし(ハンドルネーム)」さんが、日本全国津々浦々の岬(崎)を訪ね歩いた旅の記録(岬コレクション)が綴られていて、その情熱に圧倒されてしまった。ブログには「岬・崎・鼻データベース」も載せてあり、それによると日本中の岬(崎・鼻を含む)の総数は「3703」あるらしい。さすが日本は海洋国家、海岸線が複雑に入り組んでいる島国であることが、この数字に表れている。

 「でんでんむし」さんの岬行脚には遠く及ばないが、思い出してみれば私も結構な数の岬(崎)に足を運んでいる。そこでこれまでの旅の中で、館山崎や観音崎のように特に思い入れが深く印象に残った岬をひとつだけあげてみたい。その岬の名は沖縄県与那国島の東崎(あがりざき)。
 日本の最西端の与那国島に渡ったのは、20代の終わりころ、もう30年以上前のことになる。与那国島は沖縄ことばで「どなん」と呼ばれているが、これは渡航が難しいという意味の「渡難」に由来するという。私は石垣島から定期船で渡ったのだが、途中の海域はいつも波が高く、汚いことばだが通称「ゲロ船」の名があるほど大揺れすることで知られる。私もそのことば通り、悲惨な目にあってしまったのだが、そうして渡った島の印象は、「どなん」の苦労を忘れさせてくれるほど、印象深いものだった。
 与那国島は東西に長く、東崎はその名の通り島の東端にある。ちなみに島の西端は西崎(いりざき)といい、晴れた日には台湾が見えることもあるという。尖閣諸島から約150キロの近距離にあるため、現在は自衛隊誘致で揺れている国境の島でもある。だが、当時はそうしたキナ臭い話には思いも及ばないのんびりした別天地であった。
 周囲は約27qしかないので、自転車でも1日でゆっくりまわれるのだが、着いた翌日にレンタバイクで東崎まで行ってみた。古くから与那国島で飼育されてきた与那国馬が放牧された岬の突端に立つと、すぐに「ニライカナイ」信仰に思いが及んだ。
 「ニライカナイ」は沖縄など南西諸島と呼ばれる島々の信仰の基本的な概念で、そこは豊穣や生命の源である楽土であり、死者の魂が赴く異界でもある。遥か遠い東の海の彼方にわれわれの住むこの世界(現世)とは別の、神々の住む国(他界)があり、神々は年に一度そこからこちらの世界にやっきて人々に福を授け、また帰っていくとされる。
 そのころの私は民俗学に惹かれ、柳田国男の『海上の道』や折口信夫の「マレビト」論などで言及される「ニライカナイ」に関心を抱き、これら民俗学者が著した沖縄関連の書籍を読み漁っていた。与那国島をはじめとする南西諸島への旅を計画したのも、私自身の興味のありどころを確かめたいと思ったからで、東崎はその実施検証の場のひとつだった。
 岬には次のような歌詞が刻まれた碑が立っていた。
〈与那国ぬ 島に渡てぃ 東崎(あがりざち) 登(ぬぶ)てぃ 見れば あん美(ちゅ)らさ波ぬ 花になゆさ 情き深さ島ぬ 心(くくる)あらわす 波ぬ花 いちまでぃん いちまでぃん 眺みぶさ〉
 これは沖縄本島出身のミュージシャン喜納昌吉がこの岬のことを歌った「東崎(アガリザチ)」の一節。私も歌詞と同じように、海の彼方を「いちまでぃん いちまでぃん(いつまでもいつまでも)」見あきることなく眺めていたことを、今でも折に触れて思い出す。