随想

──しなやかに したたかに──

菅 禮子

 昭和二十年というと、日本が五年間も戦い続けたアメリカをはじめとする連合国に無条件降伏した年だが、その暮れから翌二十一年にかけて東北地方は大雪だった。
 朝鮮半島は京城(現・韓国ソウル市)から、リュック一つで家族と共に亡父の生まれ故郷である秋田の五城目町は馬場目村に引揚げて来たわたしは、一面白一色に埋め尽くされた雪景色を眺めて、──ああ、これがみんな砂糖だったらな──と、思った。美しいとか凄いとか、そんな感想が浮かばなかったのは、それほど甘い物に飢えていたということだろう…
 育ち盛り──当時わたしは十六歳だった。育ち盛りと言えるかどうかだが、三人の兄達の四人兄妹の末子で、行動の規範はすべて母や兄まかせの十六歳は身も心も共に稚かった。
 身を寄せた伯父の家は、伯父、伯母、養女のユキ(夫は北支に出征して当時は中国に抑留中だった)、その子(女一人、男一人)たち、女良衆(年季奉公の女たち)三人、若衆(やはり年季奉公の男たち)二人──総勢十人の大家族。そこへわたしたち五人の引揚げ組が転がり込んだわけである。
 ある日「雪室から野菜をとり出してくるように」という伯母の命令を受けた若衆二人に面白半分について行った。若衆たちがショベルで目印に杭を立ててある雪を掘り起こすと、雪の中から薯、人参、ネギ、牛蒡、さまざまの野菜が姿を現した。(これらは更に、台所の床下にコンクリートで造られた地下蔵の中に保管され冬場の折々の料理に供される)
 わたしが驚いたのは、そういう雪国の暮しの知恵ではなく、雪を掻きのけた時に目に飛び込んで来た下草だった。
 物みな枯れ果て、見渡す限り白一色に掩われた尺余の雪の下には、青々とした草が息づいていた。わたしはその下草の瑞々しい緑に表現し難い衝撃を受けた。
 幼藍の地である朝鮮半島の京城(現・韓国ソウル市)の冬は、人びとの靴痕の模様が凍てついた地面にそのままくっきりと刻まれ、雪は滅多に降らない。そんな冬の季節を、人々は、盆栽の鉢を部屋の中にとり入れて、僅かに緑をたのしむのである。
 降り積もった雪の下で、青々と息づく緑の草……それはわたしにとって、まさに祖国日本の風土との出会いの瞬簡であった。
 以下、※1蒔田明史氏の文より引用文──

雪の圧力に身をまかせながら、一見、厳しく見えるその条件をうまく利用して生きている。暖地の植物には見られない、したたかな強さ! 地表の温度が氷点下数十度になっても、雪の中の温度はそんなに下らない。
いわば、「かまくら」効果のおかげで葉をつけたまま無事に冬を越し、春先の明るい林床でいち早く効率的に光合成を開始することができる。 目を閉じると、日本という国──そこに暮しを営む国民の形成する社会──は、まさにこの雪の下に息づく青草と言えはしまいか──


 科学、学術、芸術、スポーツ、医療……あらゆる分野でめざましい研究成果をあげながら、恣意的に核ミサイルを撃ち出して周辺の国々を威嚇することも、他国の領海に自国の船を出没させて挑発することもなく、ただしなやかにしたたかに、世界に誇る経済大国として活気にみちた社会を現出している。
 人びとは流行の服(衣類)を身にまとい、飽食、享楽に身をゆだねて街中を闊歩している。引揚げ後、わたしたち一家の祖国における歩みは厳しかったが、おかげで叔父の家から自立してそれぞれの暮しを営むことができた。
 しかし、この活気に溢れた社会相に一抹の不安を抱くのはわたしだけだろうか……
 繁栄のるつぼとも言うべきこの日本の社会は、一方では己の欲望のままに窃盗、詐欺、放火、金品強奪、殺人──子が親を殺し、親が子を殺す── 繁栄にみちた社会は犯罪のるつぼなのだ。しかもそれらの犯罪を犯す年代が年々低年齢化している。彼らは環境にとけこめず、相談する成人不在の中で生き方に行き詰まると、犯罪に走るか、あるいはいとも簡単に自殺してしまう。
 ここでわたしの年頭に浮かぶのは、※2日野原重明氏のお詞である。

“人はどう生きて来たかではなく、これからどう生きるか…自らデザインすることだ”

 これこそあらゆる可能性とさまざまの重圧の中で雪の下の青草のように、よりしなやかに、よりしたたかに重圧を逆手にとって光明をわがものとする生き方を工夫する──
 そういう生き方を物みな充たされているようでありながら、馴染めない魂を抱いて彷徨する次世代に伝え、教えることが、昭和の初めに生まれて戦争による飢餓と、戦後の繁栄即ち飽食、それぞれの時代を体験したわたし達の一つの在り方と思うのだが──

※1 … 蒔田明史氏、秋田県立大学生物資源学部教授
※2 … 日野原重明氏、医師・医学博士、財団法人聖路加国際病院理事長、同・名誉院長