随想

隣国の友人、呉さんのこと

藤原優太郎

 異常豪雪の2月半ば、お隣、韓国から懐かしい友人が秋田へ遊びにやって来た。44年ぶりの再会であった。
 友人の名は、呉仁煥(オーインファン)さん、僕より3歳若い昔の山の友人である。秋田在住の山仲間と一緒に空港に出迎えた時、お互い頭髪に白いものが目立ったが、笑顔は昔と変らなかった。
 1968年末から翌69年正月にかけ、韓国の雪岳山(ソラクサン・1708m)に当時の山仲間8人と遠征登山をした。みなバリバリの現役だったので、計画は厳冬のデスバレイ(死の谷)という氷瀑ルートの初登を狙うものであった。その山行に際し現地のリーダーを務めてくれたのが大学生の呉さんであった。
 目指したデスバレイは暖冬で氷の発達が不完全だったので登攀を断念し、雪岳山の登頂だけに狙いを定めた。当時、僕は25歳、呉さんは22歳でともに体力の絶頂期にあった。
 凍るような風が吹きすさぶ氷雪の稜線を渡り、最後の頂上を極めようとした時、どちらからともなく登頂一番乗りの競争になった。ほかのメンバーはみな遅れている。猛然と堅雪の山稜を駆けてゆく呉さん、それを追いかける僕、烈風の中のデッドヒートだった。最後はトップを呉さんに譲った(?)形だったが、山頂での固い握手は忘れがたい思い出だ。
 当時、韓国の山岳界は世界に追い着け追い越せとばかり、ヒマラヤ登山へ照準を合わせ始めた時期だった。呉さんはその先頭に立ち韓国ヒマラヤニストのパイオニアとなって奮闘した。
 彼はその後、韓国山岳会のエベレスト遠征で隊長を務め、1984年、86年、93年の3度にわたる冬期エベレスト峰の登頂を狙った。2度の失敗のあと、3度目についに成功したという。
 今は、韓国ヒマラヤンクラブの会長として、韓国においては超有名人となった。今は企業経営から退き、悠々自適の暮らしをしているそうだ。首都ソウルの南郊に広大な山林地所を所有し、年に数回は外国旅行をしているという健在ぶりも伺った。

 実に44年ぶりの再会であったのだが、彼は僕らの遠征登山隊の中で最年少隊員だった僕が歳も近いせいかことさら親近感をもったと告白してくれた。
 呉さんの来日は、由利本荘市の岳兄の誘いに応じたものであり、雪の秋田で地酒を酌み交わしたり、温泉を楽しむといったのんびり旅であった。
 鳥海山麓、鳥海荘に仲間が集い、呉さんを囲んで酒宴を催した。地酒の高級酒はもちろんだが、呉さんの持参した真露(アルコール度19度)が一番美味かった。日本で市販されている真露は25度で、19度は残念ながら手に入らない。
 森吉山中腹にある知人の民宿にも泊まっていただいた。折しも大雪で、道路も何もまったくのホワイトアウトの世界だったのは、歓迎する山男の演出だったわけではない。最奥の杣(そま)温泉へも行ってみた。彼は露天風呂がとくにお気に入りだったのだが、杣の露天風呂は大雪に埋もれて露天入浴は果たせなかった。
 ところで、僕らが訪韓した60年代の韓国といえば、親日派の朴正煕(パクチョンヒ)氏が大統領であったが、対日感情もまだ安定しているとはいえず、国防と経済発展の二本柱で国政運営をしている微妙な時期だった。
 一方、当時の日本は高度経済成長の下、昭和元禄の太平ムードに酔っていると韓国の知識人から指摘されていた。それでも、ソウルやプサンの市街地には高層ビルや高速道路の建設が始まり、発展の緒についていた。
 呉さんが帰国してまもなく韓国新大統領に朴槿恵氏が就任した。父子2代にわたる大統領で、呉さんもそれを歓迎していた。呉さんとの出会いと再会が期せずして朴大統領父子というのも何かの因縁というものであろうか。朴槿恵さんの名にある「槿」は韓国の国花、ムクゲで夏に美しい花を咲かせる。僕の好きな花である。