随想

密集・拡散・羅列

菅 禮子

 プラスチックの小さな筒型の容器に押し込まれたツマヨージ。先端は下に上部は丸いアタマがつまっている。
 ある夜、TVで巨人対中日の野球を観戦中ぎっしりとつまった観客席が目に入った。
「あ!ツマヨージ」と思わず心中で声をあげた。

 話は変わるが、昨今のTVを観ていると溜息が出てくる。
 例えば対談中の出演者──あるいは舞台で、熱唱する歌手の背景にセットされた映像──は背景全体に拡散する、あるいは羅列する水玉であったり、その他なにやら得体の知れない紋様がのたうつようにめまぐるしく動く。これらの映像に眩惑されて、出演者の話が頭の中に入って来ない──これでは出演者の話の貧困な内容をカバーするために、視聴者の目を奪うこのような動く背景をわざわざセットしているとしか思えない……あまり目が廻りそうな映像は即チャンネルを変えて観ないようにしている。
 恐らく少荘気鋭の制作者たちが、アタマをしぼって創出しているのであろうが──
 こういう派手で大がかりな演出は、即現在の社会現象の反映にほかならない気がする。
 エロ、グロ、ナンセンス──のなんでもありの一切をのみこんだ世相。詐欺、暴行、殺人の横行する一方で、刹那刹那の快楽に生きようとする若者たち──物は溢れ、快適、飽食の中で──にとっては国の経済がどうなろうが、竹島や尖閣諸島が外圧によって国家の威信が傷つけられようが、少しも関心を持たない。今現在が己の好みで充実していればよいのだ。
 スポーツに例をとれば応援席の彼らは、たちまちケースの中のツマヨージの頭の如く密集して怒濤の声援を送る……言っておくがわたしはそれが悪いと言っているのではない。こんな世相の中でも孜々として研究に打ちこみ、ノーベル賞を獲得しているいわゆるエリートたちの存在がある。問題はそういうエリート集団から疎外された、あるいは興味関心を持たない大多数の人々──が一度そのエネルギーを以て暴徒と化し日本の社会の根底を揺り動かし、ひっくり返しかねないということをある危惧、杞憂を持って眺めているのだ。

 

ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

 “昭和維新─青年日本の歌”と称されるこの詩は大正デモクラシーを謳歌していた日本国中を震撼させた、一部の青年将校達によるクーデターを謳ったものだが、こういったいわゆるテロリズム(暴力)あるいは外圧によらずとも自助努力でこの日本を秩序を保ち事あれば扶け合う健全な社会にしたいものだ。

 ツマヨウジの頭的現象はまだある。この国の家──玩具の箱のような外観の家々──
 数十年前に秋田を訪れた司馬遼太郎さんが筆者に直接仰言られたのに「秋田にこそ、古き佳き時代の家々のたたずまいが観られるであろうと期待して来たのですが、いやァ裏切られましたね。街の家々だけでなく、農家も亦、コンクリートにアルミサッシの現代風の家ばかり……」
 あえて言うとそんな家ばかりではない。今尚数十年から百年以上の家は現在でも存在する。しかし、それらの家はチャチでない豪壮な外観だが、軒は低く、内部は薄暗い。昼尚屋内に電燈をつけている。
 司馬さんが慨嘆されたアルミサッシの玩具のような現今の家々は外観はチャチでも、内部は滅法明るく、清潔であるのだ。
 ただ、ツマヨージの頭を並べたような、どれもこれも同じ外観なのがいただけない。
 中には風呂屋のようなタイルを外壁に貼つけているのがあって、ギョッとさせられる。
 創り手たちのそのセンスのなさ、やはり、舞台やテレビの画面に心血を注ぐ若手の舞台装置家のように建築業界も、より個性的なツマヨージの頭でない新しい波を起こしてほしいと思うのだ。