随想

乗りたくない「欲望という名の電車」

藤原優太郎

 形のあるものは必ず壊れる。今年はその当たり年になってしまったようだ。春以来、次から次と色々な物がトラブルを起こして壊れ続けている。
 最初はパソコン。デスクトップとノートパソコンが同時に故障し、追いかけるようにプリンターまでいかれた。好きと嫌いにかかわらず仕事上欠かせないツールとなってしまい、専門ショップに持ち込んだらいずれも再起不能とのこと。寿命といってしまえばそれまでだが、電気製品でも何でも最近のモノに修理というのは合理的ではない。
 「新品に交換した方が安いですよ」と言われれば「そうですか」と言うしかない。元々無い物であれば修理も何も不要ではあるが、使用しないわけにもいかないし、結局はいずれも新品に交換した。
 夏の猛暑のさなか、家のエアコンが故障した。省エネとばかり扇風機で我慢したのだが、さすがに限界があった。これも交換するしかなかった。
 あらゆる場面で、モノは必ず壊れ、寿命があることは知らねばならない。愛車も17万キロ走ったらしきりに新車購入を勧められた。しかしそれは車検で切り抜けた。時計の電池が切れたので交換したら、その後、文字盤ガラス内部が曇ったので直してもらった。「安い時計だからしょうがないですね」とは余計なお世話だ。老眼鏡も交換した。
 ついでにというべきか、携帯電話まで壊れて使い物にならなくなった。これも新品交換である。
 ことほど左様に、今どきはすべてといっていほどIТ化された製品が多く、ほとんどコンピュータ制御にかかわる製品が多い。アナログはもはや時代遅れということなのかも知れない。
  コンピュータ製品はその心臓部にICチップが使われている。一時期、半導体工場でICチップの良品、不良品を仕分けるプロセスチェックの仕事をしたことがある。問題はその良品と不良品の境目で、ぎりぎり良品(不良品かも知れない)と判断されたものは、どうなるのだろうと疑問なことしきりであった。あるメーカーのカメラに使用されると聞いたが、その社のカメラを買う気はしなかった。


現代人の姿を映す自然の鏡

 モノが壊れるのは冒頭述べたように寿命があるから仕方がないといえば仕方がない。それがもし身体や心が壊れてしまったら…。治療はともかく交換は難しいから脳もココロも複雑だ。
 あらゆる場面でコンピュータに支配される現代社会。考えてみるとすべて人間の「欲望」が根底にある。便利さと快適さばかり求めると、行き着くところは地獄しかない? 最後は精神に異常をきたし極楽世界と気づくのは、ビビアン・リーとマーロン・ブランド主演の「欲望という名の電車」(テネシー・ウイリアムズの戯曲)の映画のとおり、終末世界しかない。
 肉体や精神、果ては生命まで、医療コンピュータで制御されるとなれば、現代社会とはなんと恐ろしいものであるか。身近な機器が壊れるうちはまだいいとしなければならないのだろうか。