随想

館山崎のグリーンタフと白岩

永井登志樹

 男鹿半島の南海岸を男鹿の人びとは南磯と呼ぶ。私はその南磯の椿という漁村で生まれ、少年時代を過ごした。
 集落のほぼ中央には、ヤブツバキが群生した小高い丘(能登山)があり、日本海側の自生ツバキ北限地帯として国の天然記念物に指定されている。そして、ここにはツバキのほかにもうひとつ、男鹿を代表する自然の記念物がある。集落の西側にのびる館山崎で見られる白から薄い緑色をした凝灰岩(ぎょうかいがん)の露頭(表土に覆われずに地層や岩石が地表に露出している場所)である。
 凝灰岩は、火山の噴火によって噴出した火山灰や火山レキ(噴火で生じた角ばった岩石の破片)などが固まってできた岩石で、このうち緑色をしたものは特にグリーン(=緑色)タフ(=凝灰岩)といい、館山崎はこの用語の発祥の地といわれている。
 館山崎のグリーンタフは、日本海側の新第三紀中新世の初期(およそ2300万年前〜2100万年前)の模式的な地層として学術上大変貴重なもので、地学研究者が必ず訪れるフィールド、いわば研究者の聖地のような場所だ。
  
 また、ここでは緑色の凝灰岩(グリーンタフ)のほかに、「椿の白岩」と呼ばれている白色の凝灰岩も見られる。「椿の白岩」は、風化作用により表面がスプーンで削られたような独特の形をしている。今からおよそ200年前にここを通った旅の文人・菅江真澄は、これを「舞茸のようだ」「雨と潮に濡れてその色は青ばみ、異様に見えた」と旅日記に記し、絵も描いている。
 白岩は晴れて太陽光があたっている時は白く輝いて見えるが、真澄が言う通り雨水に濡れると暗い緑色〜青っぽくなる。グリーンタフも嵐で潮風が吹き付けたりすると、一層深みの増した濃い緑色になる。普通は海岸の地層を観察するには晴れや曇りの日が適しているが、ここだけは雨の日の観察もおすすめできる。
 菅江真澄は男鹿半島をめぐって著した「男鹿五風(ごふう)」と総称される5冊の旅日記を残しているが、これには文章だけでなく、たくさんの絵がはさまれているのが特徴で、よく見ると地層や岩石のようすがとてもよく描かれている。

菅江真澄の描いた「館山崎と椿の白岩」(秋田県立博物館蔵写本)

 真澄は長い旅に出る前、本草学(主に薬用の観点から、植物を中心に動物、鉱物などを研究する学問。薬学、博物学)を学んでいたことがわかっている。そのため、博物学者の知識と自然科学者の眼を持ち合わせていた。館山崎を描いた絵は、真澄らしい観察眼でグリーンタフの特徴をよくとらえているように思う。


館山崎のグリーンタフ

 ところで、男鹿半島は館山崎のグリーンタフに代表される日本列島誕生の記録が残る場所であり、およそ7000万年前から現代までの地層が連続して観察できる、いわば「大地の博物館」ということができる。そのことが認められて、昨年9月に「男鹿半島・大潟ジオパーク」として東北で初めて日本ジオパークに認定された。
ジオ(GEO)は「地球、大地」という意味で、ジオパークとは、科学的に見て重要で貴重な地質遺産(地層、岩石、地形、火山など)が数多く点在する「大地の公園」のことをいう。その中には大地のうえに成り立っている自然、その土地の風土ならではの祭事や食べ物など、そこで暮らす人々が育んだ歴史や文化も含まれる。
ジオパークは、2004年にユネスコの支援で設立された世界ジオパークネットワーク(GGN)により世界各国で推進されていて、国内では20地域のジオパークが日本ジオパークネットワーク(JGN)を結成して活動中で、このうち洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島、山陰海岸、室戸が世界ジオパークに認定されている(2012年8月現在)。
 私は3年ほど前から、このジオパーク推進事業に関わるようになり、現在は「男鹿半島・大潟ジオパーク推進協議会」の一員であるNPO組織に在籍し、世界ジオパーク登録に向けた活動を行っている。

 小学生のころ、夏休みの期間中に浜辺で遊んでいると、ハンマーを持った秋田大学鉱山学部(現工学資源学部)地質学科の学生らしい一団がやってきた。私は子供ながら何となく知的興奮を覚え、そのあとをついていき、館山崎で岩石を採取する学生たちの様子をよく眺めていた。彼らがいなくなったあと、家からカナヅチを持ち出してきて、岩石をたたくまねごとをしたりして、いっぱしの地質学者?を気取ったりしたのも一度や二度ではなかった。
 ただし、学校の先生を含めて大人たちから「グリーンタフ」や「椿の白岩」の重要さ、貴重さについて教えてもらった覚えはないように思う。ひとりで岩と戯れていたちょっと変わった子どもだったそんな私が、齢60の今ごろになって、「男鹿半島・大潟ジオパーク」推進に関わる仕事をしているのだから、人生とは不思議なものである。