随想

坂の上の野面積み

藤原 優太郎

 春、雪が解けてから「山の學校」の近くにある湧水周辺の整備をしている。道楽半分の手作業である。水場は坂道の途中にあり道路には側溝がある。ここは市道だが途中の崖が崩れやすいため通行止めにされている。
 湧水のまわりにはヤナギやケヤキなどがあってそれなりに土留の役目を果たしていたが、雪のためにヤナギが倒れ道路を塞いでしまった。また崩れた土砂が道路や側溝にはみ出して雑草がはびこっていた。もちろん側溝も土砂に埋まってまったく役目を果たさず、流水が道路に溢れていた。このような状況を目にすると黙っていられない衝動に駆られた。
「なんとかここをきれいにしたい」と思った。
 まずは太いヤナギの倒木を友人にチェンソーで伐ってもらった。それから道路を覆っていた土砂の排除に取りかかった。中には大小の転石がたくさん混じっている。この石を無駄にせず土留となる石垣にしようと思いついた。石の積み方はいわゆる「野面積み」というものだろうか、昔の人たちが手積みで造ったランダム石垣である。
 毎日少しずつ作業を進めた。雑草と土砂を下の斜面に落とし、少しずつ少しずつきれいにしていった。側溝はほとんど土砂で埋まっていたのでそれを唐鍬とスコップで掘り上げて取り除いた。土木機械があれば一瞬にできる仕事ではあるが、手作業でも毎日少しずつやればやれないことはないと思った。一人黙々と汗を流した。沈思黙考の作業である。
 フキノトウやコゴミ(クサソテツ)が伸び、山桜や春の野草が咲き、オニグルミの葉が開き、鳥のさえずりが賑やかになって渓流の水音も大きくなった。わずかずつだが、きれいになってゆく景観を見て清水だけではなく喜びも湧いてきた。

 


 菊地寛の『恩讐の彼方に』をふと思った。ひとり黙々と隧道を掘り続けた前世、極悪非道だったある僧の物語だが、今、この作業をしている自分には前世のからくりも何の理由、動機、目的もない。ただきれいな湧水の確保と道路をきれいにしたいというささやかな欲望に突き動かされただけである。
 1ヶ月ほどでようやく湧水の周辺がきれいになった。水もどんどん湧いて来る。少しずつきれいになってゆく作業の結果を目にすると、まわりもまた気になってしょうがない。坂の上の側溝もすべて泥や落葉に埋まっているし、法面は樹木に蔓がからみあって醜い。そこにも手が伸びた。喜びはただきれいになるという結果だけ。たまに友人が来ても「手伝おうか」の言葉はない。それはまったく期待しない。なぜならこれは一人だけの喜びにしたいと思うからだ。腰痛や手首の腱鞘炎などかまっていられない。
「野面積み」の石が底をついてきた。石積みは未完成である。下の川べりに行けば斜面から崩れた転石がいくらでもあるから今度はそれを一輪車で運ぼうと思う。毎日、山に来て、気がつけば長靴はいて軍手をはめる自分がいる。そこはなんだか運命の坂道のような気がする。桜の花びらが散り敷かれた坂の上には、いつの間にか白い夏雲が湧き始めている。


泥や石で満タンだった側溝と石積み