随想

遙かなるモンゴル(蒙古)と
梅棹忠夫先生

菅 禮子

 秋田の大人たちが、子供を脅すのに「言うことを聞かねばモキャモキャが来るぞ!」というのがある。今はほとんど耳にしないので“あった”というべきか──
 外地育ちのわたしは「モキャモキャ」の意味がわからず“モモンガ”のことか?と思っていたが、ある人が「それは蒙古のことだ」と教えてくれた。その真偽のほどは解らないが、一応、これを真のこととして筆を進めよう。
 蒙古──昭和生まれのわたしが、遠い遠い蒙古の地に憧れを抱くようになったのは何時からのことであったろう……小学生の頃、吾家に寄宿していた三人の従姉たちが口ずさみ、節に合わせて踊ったりしているその歌の詩句とメロディにふと惹きつけられたのが初めと言えようか──

  天つ日影に生い立ちし大和撫子雄々しくも
  救いの使命身に帯びて征きし乙女に幸あれや

  羊飼う子の笛の音は 祖国の歌を歌えども
  胡砂吹く荒野風荒れて蒙古の王城今いずこ

 “征きし乙女”は明治時代に蒙古王の子女の家庭教師として、単身蒙古の地に赴いた川原操(長野女子師範出)のこと。
 彼女にまつわるエピソードは紙数の関係ご割愛するが、わたしはこの歌に触発されて──わたしも川原操のように蒙古なる地に行ってみたいと憧れを抱いたのだった。それは当時乙女たちの間で大流行した中原淳一描くところの少女画に対する心情とおなじようなものではなかったか?
 蒙古──その名が日本の国の津々浦々まで知れ渡ったのはかなり古い。十三世紀──文永十一年(紀元1274)弘安四年(紀元1281)の二度にわたって忽必烈を王とする元の兵が船団を組んで日本の北九州に侵攻して来たのだ。折から襲来した颱風によって船は人諸共にことごとく沈み元の日本侵略は挫折した。しかし、蒙古(モキャモキャ)が来るぞという子供への脅し文句になるほど、それは日本国の人びとにとって有史以来未曾有の恐怖の対象であったのだろう。

 ある日、わたしは一冊の本にめぐりあった。
 梅棹忠夫という方の『回想のモンゴル』(中央公論 1990年10月刊行)という本である。いわゆる蒙古の大草原に展開したフィールドワークを基礎に民族文明学という独自の文明論を確立したその内容は、それまでのフワフワした乙女チックなわたしの憧れを雲散霧消させた。

 梅棹氏は京大時代、先輩 今西錦司氏が、大興安嶺や内モンゴルを数ヶ月にわたって探査旅行した折の、果てしなく拡がるモンゴルの大草原の魅力を語るのに刺激を受け、いずれは自分もモンゴルの地に入って学術調査をしたいと希い、それを実行されたのだった。『回想のモンゴル』はその所産である。心を打たれたのは、その情報の処理法である。面倒な資料を楽しんで整理している──それについて、氏は“情熱的な夢を強烈な意思の力で、行為につなげることだ”と言われた。
 後年視力を失われても尚かつ学問への情熱を失わなかった氏のこのお言葉は、現在手足のシビレや、歩行のままならぬ状況にあって、厭世的・虚無的になりがちだったわたしを蘇生させた。耐え難いと感じていた起居動作が楽になった。そして最も嬉しいことは、少女時代の夢だった蒙古を感じ、観ることができたことである。なぜならわたしは梅棹忠夫氏の眼と心を通して、蒙古の大草原を、そこに生活するモキャモキャの人びとの暮らしの様式やそこに棲む動物たちの姿を観た。
 氏は二月三日逝去された。今頃は、空の上で地球全体のフィールドワークをされていることだろう。