随想

煉獄の星

菅 禮子

 黒暗々の宇宙の中、無数のクレーターと共に大写しになった月面の端から、今しもゆっくりと姿を現した惑星──“地球”という名のその惑星のなんという青さ、明るさ、美しさ!そこにはアジア大陸と共に日本列島がくっきりと映っている。今、あの中に確実にわたしは存在し、生きている。──宇宙ロケットから写し出された映像の中にそのことをたしかめて、わたしの胸は感動と喜びに胸がふるえた。
 それから一年後──
 襲いかかる大津波に、まるでイナゴかバッタの大群のように幾万という人が、家が、車が、押し流されて行くさまを、あの青く美しい地球を感動と共に観た同じテレビで観ている。
 東北地方は太平洋沿岸の都市、街、村々を揺り動かしたマグニチュード9.0の東日本大震災は、そこに営まれた人々の暮し、その暮しのあかしとなる使い馴れた道具、思い出の品々、ありとあらゆる物をおしつぶし、のみこんで津波が去ったあとに残ったのは、途方もなく大量の瓦礫に埋まった大地だった。
 その核にこのような破壊のエネルギーを内蔵している地球は、表面は美しくても、決してそこに住む人類をふくむ生物にとっては安住の地ではないということを、これまで起こった数多くの地震をふくめて、わたし達は思い知らされたのだ。これを神の啓示とすればどう受け止めればよいのだろうか。
 廿一世紀に入ってからの日本の社会の姿を観ると、科学の推進によって生産されたあらゆる道具、便利で住み心地よい家、贅を尽くした衣服、豊かな食物に溢れ、社会保障、福利厚生施設は、津々浦々まで整備され浸透している。
 しかし、まさに地上の楽園とも言えるその一方では汚職・詐欺が横行し、親殺し、子殺し、相手はだれでもよかった─などという衝動的な殺人が平然と行われ、テレビドラマでも、いわゆる殺しがテーマの作品がこれでもかこれでもかというほど放映されている。巷では戦争を知らない若者たちが深夜の街をオートバイを連ねて、騒音をまき散らしながら走り抜けたり、国の文化遺産の建物を疵つけたり記念碑に落書きしたり、あらゆるルールを破ることに快感をおぼえているようだ。
 成人もまたその活動は日本を世界第2の経済大国にまで成長させたが、戦後六十年余ひたすら、金銭欲、物欲、性欲、あらゆる欲望に支配されて来た。若者も成人もすべてがそういう人ばかりではないだろうけれど良き人も悪しき人もまるで津波の跡の塵芥さながらゴチャマゼのすがたが呈示されているのだ。

 ダンテの『神曲』の詩句だったろうか?──ここを過ぎて滅びの市へ──という詞を思い出した。滅びの市とは地獄──そこには愛欲や物欲におぼれた者、他人を殺した者、親族殺し等が絶え間ない責苦に悩まされていると──ではここ過ぎてのこことはどこか、それは即ち天国と地獄との間、煉獄でなかろうか。私たちは煉獄の中に生きている。
 このままで行けば日本は滅びる。この煉獄から地獄に墜ちて、永劫に姿を没してしまうかもしれない。
 二ヶ月を過ぎてまだ治まらぬ余震に揺れながら底知れぬ不安の日々を過ごす中、思わず眼を奪われた新聞記事があった。
 平成二十三年三月十一日、宮城県南三陸町の防災対策庁舎の二階から、防災放送で刻々迫る津波の襲来を告げ、「一刻も早く、高台に逃げて下さい」と町民に呼びかけ続けた、遠藤未希さんはやがて遺体となって発見されたという。二十四歳という若さだった。掲載された生前の写真の屈託のない笑顔を前に思わず熱い?がこぼれた。今もあとからあとから湧き出る?ををぬぐいつつこれを書いている。
 押し寄せる津波をまのあたりにしながら、町民の生命を救おうといまわの際まで放送をつづけた──自己責任を全うした……
 それで胸の中に蘇えった事がある。今から六十数年前、太平洋戦争も終盤のことだった。
 昔は樺太といわれた北方の地で、敵の進攻をまのあたりにしながら、電話通信で情況を本土に送りつづけ、最後は「本土の皆さま、さよなら、さよなら」の声を残して全員自決した電話局の通信手の女性たちである。(今は北海道の宗谷岬の辺りに碑が建っている)
 彼女たちは幼い時から全体に対する奉仕、自己犠牲、国家への忠誠心をたたきこまれて育ったのだが、敗戦による大転機を迎えて、人びとは個々人の自由を与えられ、すべては己の責任に於いて自由に生き行動することになった。
 そして六十数年の歳月を経て社会は今のすがたになったのだが、先の戦争中ならいざ知らず、今の時代にこんな究極の自己犠牲によって、奉仕する若人が存在したとは──
 もう今時の若い者などとは言うまい!
 涙滂汰の中でそう思った。日本の未来はどう変わろうとこういう若人の在る限り、この国は沈没せずに“素晴らしい国”であり続けるだろう。
 美しい地球には美しい人間の魂が生き存在する。