会長の言葉

続・平田篤胤 会 長 菅原 三朗

 

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 平田篤胤の神社の前に、この神様は何をお導きくださるのか書かれてあります。まず文化です。平田篤胤はその他いろんな勉強をしていますから。芸術、道徳、宗教、そして健康と書かれています。医者を二年くらいやって本も書いていますから。それから豊かな生活、社会開発と、こんなにご利益があるよと書いてあるんです。お参りしている人や通りがかりの人は、誰が祀られているか知らないで手を叩いて拝んでいく。日本はそういう国なんです。八百万の神がいるわですから。
 平田篤胤の書で「志都乃石室」があります。医者も二年ぐらいやってやめちゃったんですが、医学の勉強をよくしており、解体新書の内容も解剖学のこともみんなうまく説明して書いてあります。またこれを読むと医者っていう奴は悪い奴で、お互い談合して自分たちにいいようなことをやったり、お金持ちの患者がいると一所懸命行って、おべんちゃらを言ったりするとか、仲人をやっていい顔をしたり、今でもそんな医者がいて非難されそうなことを書いているんです。そして医者が嫌んなってやめちゃったとも書いてあります。
 平田篤胤は、本居宣長をものすごく尊敬していたんですが、どうも本居宣長が死んでから存在を知ったようで、それで弟子になりたい、弟子になりたいって、ある時夢に見るんです。本居宣長に平田篤胤が頭を下げて、どうか入門させてくれと頼んでいる。そういう絵を描かせたんです。それくらい宣長に対して尊敬していた。当時本居宣長はすごい勢力を持っていて、門弟になるということはある意味で非常に発言力が強くなる。それもあったんだろうと思いますが、結局は息子さんにお願いして宣長の死後に門弟になるわけです。



 篤胤の門人は最初は少なかったのですけれど、死んでからも門人を受け入れて明治9年には3,700人くらいいたといいます。著名な弟子としては佐藤信淵、宮負定雄などがいます。佐藤信淵は秋田出身で篤胤より年上なのです。平田篤胤を尊敬していた医者で、お父さんが鉱山のことを指導する人で「医者は患者を治すだけだが、もっと国を治すことをやらなきゃいかん」と言われたとか。医者であったのですけど江戸を追放され、千葉県辺りの農民とか漁民の援助をした人です。
 篤胤も茨城県とかこの辺に弟子が多いんです。だけど信州下伊那郡、伊那谷ですが、篤胤は信州には1回も足を踏み入れてないのに不思議なんです。伊那谷は当時、日本のいろんな情報が全部集まっていたと言う話もありますが、それが理由かどうかは分かりません。
 伊那に篤胤を祀る本学神社という神社がいまでもあります。この神社が今でもあります。この神社には篤胤が持っていたという霊石、太陽石という石があります。神社のそばの人は明治維新の時に、失くなっちゃいかんということで篤胤の本を全部担いで自分のところに持って保存したりしています。
 「夜明け前」という島崎藤村が書いた本があります。夜明け前と言うのは要するに明治維新の前ということです。この本を読まれた方は分かると思いますけど、主人公は島崎藤村のお父さんがモデルといわれ、平田篤胤信者のことを書いた本なんです。最後にこの主人公はお寺なんか要らねえってわけでお寺を燃やしちゃうんです。
 当時の心ある日本人は日本の国をどういう風にして守ったらいいのか、そういうことを一生懸命やったわけです。古い歴史は知ることだけに意味があるわけではなく、新しい時代を創ることに意味がある。われわれは特に新しい時代へのチャレンジ精神というものを、いつも持っているというのが大事だというのが大事だということが分かります。そういうところが平田篤胤から学べるところだと思っております。(了)