会長の言葉

平田篤胤 会 長 菅原 三朗

 地元医師会の主催で講演をされた、日本赤十字社医療センター名誉院長の森岡恭彦先生が、その後段で平田篤胤のお話をされました。
 東京代々木の森岡家の真ん前に平田篤胤神社があり、平田家5代目の人が隣家で、先生は平田篤胤神社の氏子責任総代もつとめている。そんなことで「平田篤胤とは縁があるんです」とのこと。
 昭和62年9月に東大附属病院長の時、昭和天皇の執刀医となったら天皇の手術は前例がなく、玉体にメスを入れてはならないと主張する一派から身辺を警護するための警官配備となりました。手術の当日新聞記者がいっぱい外で待っていて、私が出たら平田家の6代目の方が「昨日先生のためにお祈りしてお守りを容易しましたから」と私に渡してくれたんです。平田神社がすぐ前ですから拝まざるを得ないんで拝んだ写真が新聞に載ったんです。手術後私も気持ちが悪かったんですけど、この記事のお陰で右翼対策になり潮を引くように代々木に平和が戻ったんです。
 秋田市の彌高神社では篤胤と佐藤信淵と二人を祀っていますが、篤胤を祀る神社は全国に4つくらいあります。
 平田篤胤という人は一言で語るのは難しい人です。いろいろな要素があり活動範囲もものすごく広いんです。秋田藩士の四男で20歳で江戸に出て、苦労して平田家に養子に入り活躍をしますが、最後には江戸から追放されてしまう。当時は鎖国の世の中ですが、イギリスやアメリカあるいはロシアなどが日本にやってきて開国を迫っていた。ペリーが来たのは篤胤が死んだ後ですが、こういう状況の中で平田篤胤は危機感を持っていて、日本人本来の精神を持って対処しなければならないと考えた人だろうと私は思っています。

 篤胤の書いたものは100冊くらいあって、私も全部読んでいません。最初の書は若いときに書いたもので、あいつはあんなことを言ってけしからん、というようにある人を攻撃した本です。あとは日本にはどういう神様がいて、国体はどうなっているのかというものですね。これは古事記や日本書紀を基にしたもので、いずれにしても、日本というのは天照大神から始まって、万世一系の天皇の下で、そういった国体を中心に日本は発展してきた、いわば天皇崇拝思想も見られます。そもそも江戸も中期になると古いものも見直さなければいかんという考えがあって、当時は本居宣長からの、いわゆる国学者は万葉集、古今集とか昔の和歌を重要視して、もののあわれとか、そういう大和心を日本人は大事にしなきゃならないということを言ったんです。
 平田篤胤は情緒的じゃなくて神代からつながっている社会体制があるんだとか論理的なんですね。篤胤はものすごい読書家で、中国のことからオランダやインドのことまで、いろんな本を読んでいるんです。外国のことを十分勉強してから日本のことを論議しなくてはいかんということで、結局は日本人という特有なバックボーンを持って西洋のいいところを日本に導入すべきという考えが見られます。当時、外国からいろんな干渉を受けて、中国なども西洋に植民地化されたわけですね。それに対して日本はどうしたらいいかっていう危機感がその基にあったんだろうと思います。

 続きは次の機会に。