随想

戦争を知らない“成人”たちよ

菅 禮子

 つれづれなるままに-などと書き出すと、六〜七百年も前の有名な随筆家、吉田兼好もどきになるが、某月某日、レコード店廃業の折、しまいこんでいた売れ残りの商品の中から“悲しき口笛”というタイトルのDVDをなにげなく封を切って鑑賞した。そしてうなってしまった。
 主演は美空ひばり。
 知人の中で「わたしね、なぜか“石原裕次郎”という俳優が嫌いなの」といった人がいたがそれに倣って言うと、わたしの場合“美空ひばり”に対して、嫌いというよりは舞台の上から、驕慢ともとれる笑顔でウインクしてみせたりする態度に侮蔑に近い反感を抱いていたのだけれど、“悲しき口笛”以来、その認識を改めざるを得なかった。
 時は戦後間もなく…所は港“横浜”第二次世界大戦中、敵の大空襲によって両親を喪い、たった一人の兄は戦場に赴いて、生死も定かでない。廃虚の土管の中をねぐらにして孤独なその日暮らしの戦火浮浪孤児というのが、ひばりの役である。年端もいかないひばりの熱演というか、役柄への打ちこみようが、歌の巧さと共に単なる芸達者なこましゃくれた子役とは言い難い天禀をうかがわせる。
 しかも、この映画を成功させているのは、監督と脇役陣である。津島恵子、大坂志郎、菅井一郎、徳大寺伸、原保美。
 多方は既に鬼籍に入った人びとと思うが、画面は家城巳代治監督の伎両によって、楽しく手堅く、倦きさせず演出され、紆余曲折の末、兄にめぐりあう物語が展開する。
 ひばりが歌う。“悲しき口笛”は藤浦洸の作詞、万城目正作曲。あいまに天才ヴァイオリニストと謳われたヴァイオリニスト役の徳大寺伸の弾くクラシックの曲が演奏されて単なる娯楽映画でない質の高さをはさんで画面をひきしめている。
 なによりも筆者が心を惹きつけられたのは、敗戦後、荒廃した焼跡の画面に漲り溢れる活気と明るさである。
 みんな貧しかった。みんな飢えていた。
 みな着たきりスズメでボロをまとって夜は地べたに着のみ着のまま寝ていた。


 それなのに伝わってくる風景や人びとのかもし出す明るい活気はなんだろう。
 そこには蘇った平和への歓びと、未来に対する希望がみち溢れているのだ。
 それに比べて現代のドラマの現場はどうか?溢れる物資、駆使されるIT、あの焼け跡からは想像もつかないような豊かな物質文化の中で、揃いも揃ってつややかな長い黒髪、つるつるに磨かれたしみ一つない肌の女性たちが入れ替わり立ち替わり登場して来てどれも無個性、同じように見える。そんな時、津島恵子のあのたしかな演技に支えられた爽やかで清楚な姿が眼前に浮かぶのだ。
 しかも展開する筋書きは、人の表情の動きもはっきりしないような真っ暗な画面(どうしてああ暗いんだろう?)、斬った!刺した!毒を盛った!車で轢き殺した!転がる死体!人の体をつらぬく刃物の光!しかもこれらは実際に私たちの眼前で展開している-いったいこれは何なのだ?物は豊かで化学・科学の分野は目ざましい進化を遂げているというのに、なぜこう世相は暗いのか?考えてみると今、国会でしたり顔にわめいている議員達も、すでに戦争を知らない世代に属する人びとが、かなりの比率を占めている。教科書や物語で知識では知っていても実体験では知らない。強制的に言動を一律化さ
れ、表現の自由を束縛され、国政の在り方に批判的な言動をしたというので、牢に入れられて拷問を受け、命を喪った人さえいたという…そしてまた、敵の空襲で無数に降ってくるエンピツほどの焼夷弾で家が丸焼けになり、爆弾で、五体がバラバラになるという現実の恐ろしさ!をドラマの作り手たちも肌身では知らない。
 戦争を知らない子供達よ-という歌があったが、今は戦争を知らない成人達よ(外交による戦争の仕方も知らない)の時代なのだ。広大な宇宙の中では星屑の一つかも知らないけれど、この青く美しい私たちの棲む地球を、人間の総白痴の星にしてはならないと思う。
 暗く陰惨なお手軽で深みのないドラマの作り手達に”悲しき口笛”を見直して、真の意味での人間ドラマ、明るく。逞しく、濃やかさを映像文化に現出させてほしいと希う。