会長の言葉

筆塚修復 会 長 菅原 三朗

 旧大久保村新関(現潟上市昭和)の菅原源八翁は、藩政末期の寛政6年から明治12年(1794〜1879)に生き、同村の肝煎を長く勤め、村民の尊敬を一身に集めた人物である。当時の藩内で優れた農村指導者として注目された人で、63歳で隠居するが、医療をほどこし、仁医として近郷の人達に慕われている。又子弟の教育にも熱心であった。花道や俳句など幅広い趣味と教養を身に付けており、随筆感想文を多く残した。これらの著述は「菅原源八遺作全集」や「上方旅日記」等にまとめられて菅原源八翁顕彰会より平成7年に刊行されている。
 源八翁は生涯にわたり人のために尽くし、一農民に徹し切って誠実なる人生を全うした郷土の誇るべき立派な先覚である。
 源八翁にはおおよそ180名位の門弟がおり、この中の大清水村久兵衛と大郷守村茂右衛門の両人が中心となり、師の恩に報いるため筆塚(石碑)を建立しようと同門にはかったところ一同から大賛成が得られ、師の存命中にこれが成就すれば、翁も極めて喜ばれるだろうと言うことで建立が実行されている。
 これに翁も感激をされ、発起人の二人に自身のこれ迄の資料等を与え、知人を通じて当時藩中随一の学者として高名な、平元勤斎に撰文碑銘を頼み早速御承引の運びとなった。おそらく久兵衛・茂右衛門の二人の情熱と、源八翁の人柄を理解した平元勤斎が心を動かされたものと推察される。翁はこのことについていたく感銘され、身にあまる光栄であり生前の面目、死後の芳名永く世に伝わるであろうと率直に心境を述べている。
 筆塚(高さ2m、巾0.9m、男鹿石)は明治3年7月上旬から彫り始め9月21日に完成している。翁は毎日の仕事ぶりを見て石工職人一同は根気よく毎日毎日休むことなく彫刻を急ぎ、下地磨きあげること、鏡面の如く表裏とも字数大凡千字に余りたり、物の見事に出来たるを賀し「男鹿石も磨けば名にたつ碑となりぬ、下氏が玉も本とはあら玉」と詠んで石工達の努力に感謝している。平元勤斎の名文と筆蹟を忠実に彫ることは至難の業であったと思われる。
 同年9月25日、筆塚完成の祝が行われ多くの門弟や村人が集い、唄を歌い酒盛りに酔い往来も出来ない程の賑わいだったと伝えられている。
 この筆塚(石碑)も建立以来今日迄140年を経て、石碑も傾き以前からその修復と保存対策が叫ばれておりました。潟上市の史蹟にも指定されており、本年度ようやく修復のための市の補助金も決定し、菅原源八翁顕彰会では修復工事の施行を、総会開催
(7月4日)よりも前の6月28日から着工することとなった。
 この筆塚(石碑)を設置仕直しの際、筆塚の内部がどのようになっているか、中にはどんな物がどのように収納されているのか、140年前のタイムカプセルの開くのが今歴史家や源八翁顕彰会員をはじめ、町の人々の大きな関心事となっている。