随想

銭湯が消える日

永井登志樹

 昨年暮れ、新聞(地元紙)に秋田市手形にある銭湯「手形の湯」が大みそかをもって廃業するという記事が載っていた。今から30年ちょっと前の1970年代の末、私は秋田市手形にアパートを借りた。秋田市に住むのは、この時が初めて。そして風呂付きの部屋を借りたのも初めてだった。
 高校を卒業してから、それまで十数回あちらこちらと引っ越し歩いていたのだが、姉のマンションに居候をした時以外はすべて風呂なしの安アパート住まいで、ずっと銭湯のお世話になっていた。その癖?が抜けなかったのか、風呂付きの部屋に住んでも、時々「手形の湯」に通った。手形地区は秋田大学がある学生町で、銭湯は当時まだまだ多かった風呂なしの部屋に住む学生たちで混み合った。そのころ、夕方から始まる仕事をしていた私は、まだ日が高い時間、空いているお昼の銭湯に入るのが好きだった。
 その後、手形地区だけで5回引っ越し、ほかに秋田市内の保戸野、将軍野、旭南にも住んだ。保戸野の部屋は風呂がなかったので、「杉の湯」(保戸野通町)、「辻の湯」(大町一丁目)に通った。特にお気に入りだったのが「杉の湯」。昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家、ブルーノ・タウトが棟続きの旧金谷旅館に宿泊した際に入浴したという老舗銭湯で、番台には老夫婦がかわりばんこに座っていた。脱衣所も浴場もこぢんまりとした小さな銭湯だったが、ここに来るとなぜかほっとし、癒された。
 藩政時代の羽州街道のなごり“六道の辻”にあった「辻の湯」も、江戸時代末期に開業したという長い歴史を持つ銭湯であった。この「辻の湯」の脱衣場には、詩人の田村隆一氏による次のような言葉を書き連ねたポスターが貼ってあった。「銭湯すたれば 人情もすたる銭湯を知らない子供たちに集団生活のルールとマナーを教えよ自宅にふろありといえどもそのポリぶろは親子のしゃべり合う場にあらず、ただ体を洗うだけ。タオルのしぼり方、体を洗う順序など、基本的ルールは誰が教えるのか。われは、わがルーツをもとめて銭湯へ。」
 ブルー一色に白抜き文字のこのポスターは、銭湯にエアコンを納入する業者が配布したのがはじまりといい、「辻の湯」だけでなくどこの銭湯でもよく見られたものである。
 秋田市高清水岡の麓(将軍野)にいた時は、借りている部屋の狭苦しいユニットバスに入るのが嫌で、土崎地区の銭湯のお世話になった。「山乃湯」(将軍野南)、「みなと湯」(土崎港中央)、「浜の湯」(土崎港中央)、このほかにもアパートから5キロも離れていた飯島の「松ね湯」まで遠征したりした。今ふりかえってみると、よっぽど暇で物好きだったという気もするが、当時はまだ独身だったこともあり、おそらく日々のストレスを銭湯めぐりで発散させ、孤独をまぎらわしていたのではないかと思う。

 土崎の銭湯では「山乃湯」がもっとも印象深い。「湯乃山」と右横書きの文字と煙突のある建物だったので、前を通るたび気になっていたのだが、入口にのれん(男湯、女湯)がかかっておらず、外観も廃屋のよう。てっきり廃業した銭湯とばかり思っていたら、中から洗面道具を持って出てくる人を偶然発見、営業している銭湯だと知り、それから建物のボロさに惹かれてよく利用した。
 「ボロさに惹かれる」というのは、へんな言い方かもしれないが、どうも私には壊れ廃れてゆくモノに惹かれる性向があるらしい。マンガ家のつげ義春氏が「ボロ宿考」と題したエッセーのなかで、「貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊りたくなる」と述べているのと、似たような気持ちといったらいいだろうか。
 旭南に住んだ時は、さすがにトシのせいか出かけるのが億劫になり、銭湯通いの頻度が落ちたが、それでも「上野湯」(川尻上野町)、「亀の湯」(中通六丁目)、「星の湯」(南通みその町)などを時々利用した。ちょうどそのころ、秋田県内の主な町を電車で訪ね、銭湯に入って一杯飲(や)って帰るという―ただそれだけの小旅行をちょくちょくやった。今から15年ほど前には、鷹巣、十文字のようなそれほど大きくない町でもまだ銭湯が健在で、駅前食堂も何軒かあった。あわよくば、その小さな旅の記録を本にしようともくろんでいたのだが、あまりに地味すぎて出しても売れないだろうと中途であきらめ、いつしか私のささやかな小旅行も沙汰やみになってしまった。
 そうこうしているうち、そんな私のディレッタント趣味にはおかまいなく、秋田県内の銭湯はどんどん姿を消していったのだった。平成18年の統計によれば、秋田県内に22軒の銭湯があったというが、4年後の現在はおそらく一桁台まで減少しているのではないだろうか。秋田市だけに限っていえば、昭和39年には秋田市内に44軒の銭湯があったが、「手形の湯」の廃業で、現在も営業しているのは、「星の湯」1軒のみ。私が20代後半から40代後半まで秋田市に居をかまえたおよそ20年間、通った銭湯のほとんどが今はないとは、なんということだろう。
 経営者の高齢化と後継者不足、新興温泉施設との競合、建物や設備の老朽化、燃料の高騰、それによる収入減…。廃業の理由は各銭湯によって異なるだろうが、風呂付アパートが一般的になり、一人暮らしの若い人でも銭湯を利用する必要がなくなってしまった。私の若いころと違って、彼らに銭湯はもう必要ないのだ。
 だが、そういう私でさえ、もう随分長い間、銭湯を利用していない。ある人がインターネットのブログに次のように書いていた。
 「世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない」(ブログ「二〇世紀ひみつ基地」)
 近い将来、秋田県内から銭湯が消える日が来るかもしれない。しかし、それをとやかく言ったり、感傷的に嘆いたりする資格は今の私にもない。