随想

「坂の上の雲」雑感

酢屋 潔

 「坂の上の雲」がNHKで放映されたので、改めて昔読んだ本を読みかえしてみた。この本の発行日は昭和四十五年だから四十年近くの歳月が経っている。
 今でも鮮明に記憶に残っているものは一つしかない。それは秋山好古がコサック騎兵と遭遇した時である。
 コサック騎兵は当時ミシチェンコ少将に率いられていて馬も人も大きく集団で陣地を突破するのを得意として世界最強をうたわれていた。この兵団と好古はまともに遭遇した。このコサック隊は騎砲を持っていた。更に秋山隊の苦戦の原因は丘陵地帯の隘路で戦闘しているため大きな兵力を展開することが出来なかった。日本騎兵は馬をすてて散兵線をつくり射撃していたが小銃弾がなくなった。そのうち敵をくい止めていた三台の機関銃の弾がなくなった。退却しかない、と諸隊長も思ったし誰しもが思った。しかし、好古は退却する意志は少しもなかった。戦術的には退却が妥当であることはよくわかっていた。退却して後方の隘路までひき下がり、そこで防禦陣地をつくって敵をささえればよい。しかし、好古の考えは違っていた。「これは日露戦争の第一戦なのだ。つねに最初の戦いが大事であり、ここで負ければ日本騎兵の士気に影響し、わるくゆけば負け癖がついてしまうかもしれない。ここで退却すればロシア騎兵に自信をつけさせ、今後の戦闘で彼等はいよいよ強くなるだろう」と思っていた。
 ついに最前線の隊長のひとりがたまりかねて馬をとばして駆けてきて退却をすすめた。
「今、わずかながら我が方が勢いを盛りかえしております。この機会に後方にさがってはいかがでしょう」
 好古はこれに対しうむと声を出したきり返事をせずにブランデーを飲み乍らそばの支那の土塀の上に横になり隊長に背を向けた。寝ているしか、仕方がない。それが好古の心境だろう。
 旅団長閣下が、最前線の機関銃陣地で不貞寝をしている、ということがこの戦況のなかで兵隊達の間でささやきかわされた。
 いまさら、どうなるものでもない、と好古は思っていた。こんな状況では戦術もなにもあったものではない。
(もう戦闘は一時間半もつづいている。敵はやがてくたびれるはずだ)ときめこんでいる。
 敵はくたびれてくる、と好古がたかをくくりつづけたように、敵は次第に北方に退却しはじめた。
 敵の指揮官は好古のように鈍感でなかった。この激戦に神経が耐えられなくなって適当な理由をつけて退却しはじめた。
 いずれにせよ、この戦闘は両軍の指揮官の神経のたたかいだった。ロシアの指揮官は好古の太さに負けた。

  好古の故郷、伊予松山というところは領内の地味が肥え、物実りがよく、気候が温暖で、しかも郊外には道後の温泉があり、すべてが駘蕩としているから、自然、ひとに戦闘心が薄い、と司馬遼太郎も書いている。気持が大らかなのである。
 つまり戦闘心はあるが、それを大らかさでつつんでいるのである。
 秋山好古もそういうタイプの豪傑だったように思う。
 ところで、司馬遼太郎はどのような思いでこの小説を書いたものだろうか。
 この作品の執筆時間が四年と三ヶ月かかった。そして執筆期間以前の準備時間が五ヵ年ほどあった。
 書き終えた時、夜中の数時間ぼうぜんとしてしまった。
頭の中の夜の闇が深く遠くその中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった。この十年間はなるべく人に会わない生活をした。明治三十年代のロシアのことや日本陸海軍のことを調べる作業に前半は苦しかったが後半何事かが見えてきて、作業が少し楽になった。
 取材にあたっては熱心のあまり大分人に迷惑をかけたことを悔いている。日露戦争の取材には参謀本部編纂の「明治丗七八年日露戦史」全十巻を参考にしようと思ったが全然使用にたえなかったという。時間的経過と算術的数量だけが書かれているだけだった。なぜこのような本が書かれたかと言えば論功行賞のためだった、という。戦後の高級軍人に待っているものは爵位を受けたり昇進したり勲章をもらうことであった。
 海軍の取材にあっては大分苦労があったらしい。海軍も軍令部編纂で官修戦史を出しているが陸軍のそれよりも資料価値は高かったという。只困ったことに彼は海軍の事については全然わからず特にネーヴィの気分というものがわからなかった。そこで父上が海軍士官として日露戦争に従軍し、御当人も海軍軍人で海軍大学校を出たという人を探してその教示を受けた、ほどの熱の入れようだった。
 司馬遼太郎は先にも書いたように陸軍に籍をおいていたので軍の教条主義、形式主義、精神主義であることを身を以て感じていた。又太平洋戦争が何うしてはじまったか、に対しても総帥権問題を通じて批判を強めている。陸軍がこの統帥権を振りかざして太平洋戦争に突っ走ったかは、日露戦争の統帥権を論ずる中で言外に論じている。
 ともあれ、私達は司馬遼太郎のお陰で忘れ去られている日露戦争というものを体感出来るのである。不朽の名作と云うべきだろう。