随想

私の動物図鑑
“訣別の朝”
その一 〜ニワトリ事件〜

菅 禮子

 このところ、可愛い動物たちがペットとして多数、テレビの画面に登場しているが、わたしの幼い頃、わが家でも犬・猫・鳥ずいぶんいろいろの動物を飼っていた。それぞれに忘れられない思い出があるが、それらの生きものたちが、わたしの生涯に少なからず影響を与えたことを、此の頃になってしきりに思うようになった。先ず手初めに“ニワトリ事件”から筆を起こそう。
 たしか小学校一〜二年の頃だったと思うが、わが家では白色レグホンの雄鶏一羽と雌鶏五羽を飼ったことがある。三百坪は優にある庭の塀ぎわに金アミを張った小屋がしつらえられていた。
 この鶏たち―わけても雄鶏がとてつもなく獰猛なやつで、人を見るとだれかれ見境いなしに飛びかかる。新聞・郵便・牛乳配達の人々の背中をとびかかりざま、鋭い足のカギ爪で引っ掻く。父もその例外でなかった。
 不思議に毎日餌をやる母にだけは飛びかからないのである。
 朝毎に小屋に入って雌たちが生んだ卵をとりにいくのは、次男の兄だった。彼は木刀を携えて小屋に入り、刃向かえば木刀でしたたかに打ちすえるので、彼が入って行くと鶏たちは隅っこにかたまってふるえている。それでも雄鶏だけは、雌鶏たちを庇うように立ちはだかって、次兄の動作を見守っている。その姿は雄々しく天晴れと言えた。
 結局かれにとって格好の標的は、この家で最も小さく稚ないわたしとなった。
 その当時のわたしと言えば、学校から帰って、塀の外からわが家の木戸をそおっと細目に開けて中の様子をうかがう。庭に放された鶏たちの姿を見ると、ピシャリと戸を閉めて家の周囲の塀をぐるりと廻って裏門の前に立ち、ドンドンと戸をたたき、声をあげて母を呼ぶ。「お母さぁん、開けてェ」
 考えてみると、こんな理不尽な話はない。
 年は稚くとも、飼い主側であるわたしが、わが家に表門から入れないなんて――

 しかし、それが現実なのだった。一度など例によってそっと細目に木戸をあけてみたら、すぐ傍に屯している鶏たちの姿が見えた。戸を閉めるひまもなく、雄鶏がとびかかって来た。わたしはけん命に逃げた。鉄格子の表門から表に飛び出しても、なおもテキは追っかけてくる。二本の脚でもってタッタッタッと追ってくる。とうとう路傍の文房具店に逃げこんだ。下校時とあって店の中は小学生や中学生で一杯だった。さすがのテキも諦めたらしい。その姿が見えないのを見すまして、いつもの裏門にまわろうとすると、いきなり「コケコッコー…」という雄叫びが頭の上から降って来た。テキはわが家の瓦屋根に飛び上がって、勝ちどきをあげているのである。
 恐怖に慓えながら過ごしたその日々にやがて決定的な事件と共に終止符を打たれた刻が訪れた。
 それは、今にも雪が降って来そうな、うすら寒い初冬の朝だった。鶏に襲われないよう毎日、木戸まで母が送ってくれるのが、その頃の日課になっていたのだが、その朝に限って母は、茶の間の長火鉢を前に、向きあった父と話しこんでいた。外套に身を包み、防寒帽を被り手袋をしてランドセルを背負ったまま、わたしは両親の傍に立ちん棒をしていた。二人の話はなかなか終わらない。
 「お母さま、もう行かないと学校に遅れるよ」 ジリジリしてわたしは母をうながした。母は「あ」と初めてわたしの存在に気づいたようにふり返って「ああ、今日はね寒いから、ニワトリ達は小屋の中にいるでしょうよ。大丈夫、ひとりで行きなさい」
 わたしは母の言葉を信じた。…愚かにも。
 玄関の三和土に降りて靴をはき、ガラリと戸を開けた瞬間、いきなりバッと黒い(いや白い)影がわたしの視界をふさいだ。「キャーッ」わたしの悲鳴を聴きつけて父と母が奥から駆けつけた。
 玄関の庇のすぐ下に、鶏たちはかたまってうずくまっていたのだ。瞬間的に顔をおおった両手を離してみると、手袋はべったりと血に染まっていた。父は棍棒をふりかざして、「コンチクショウコンチクショウ」と雄鶏をなぐりつけた。「ケケココケケココ」鶏たちは一様に羽を拡げ悲鳴を上げながら、庭中を逃げまわり、とうとう縁の下に逃げこんだ。
 わたしの頬は耳根からアゴにかけて、雄鶏の鋭い爪に切り裂かれ、パックリと口を開いていた。
 とりあえず赤チンで消毒をして、わたしの顔にホータイを捲いている母の傍で、父は、「顔に傷跡が残って、嫁に行けなくなったらどうしよう…」と、オロオロ声で言った。
 ――なんて間抜けな親たちだろう―― 幼な心にわたしは思った。病院に連れて行かれて、六針も縫われたが幸い傷跡は残らなかった。
 雄鶏は呼ばれた業者の手で、首をねじられてあえなくあの世へ行った。しかし、それはわたしのそれまで絶対信を抱いていた母・父ひいては大人に対する訣別の朝となったのである。