随想
現代に迫る「剱岳・点の記」
藤原優太郎

 今年、公開された新田次郎原作の小説、「剱岳・点の記」が木村大作監督の作品として公開され大きな話題を呼んだ。明治末期、帝国陸軍陸地測量部が日本全国の5万分の1の地図を作成するため、当時の測量官たちが未踏の山岳地帯に分け入った物語である。
 これは柴崎芳太郎という新進気鋭の測量官たちが土地の山案内人、宇治長次郎に従って未踏とされていた越中国(富山県)の難攻不落の山岳、剱岳に挑んだ実録に基づいたものである。それまで剱岳は立山信仰に携わる土地の人たちに、針の山と呼ばれ、絶対登ってはならない禁断の山とされていた。それを敢えて軍事的国策のため、地図製作に欠かせない三角点測量を実行したのが柴崎測量隊であった。
 かれらは艱難辛苦のうえ未踏とされていた山頂への初登頂は果たしたのだが、結果的に剱岳山頂に三角点を設置することはできなかった。一行が計らずもそこで目にしたのは奈良時代のものとされる鉄剣と錫杖の頭部だった。はるか1000年も前、すでにこの峻峰は登られていたというまぎれない事実。それも信仰の力のなせる技であったものだろう。
 小説『剱岳・点の記』を読んで、昔の測量官たちの熱意と行動力には感動したものだ。映画化の話が出始めた一昨年夏、私たち「あきた山の學校」男女8人のパーティーはぜひこの「点の記」ルートを踏破してみたいという決意で剱岳登山を敢行した。
 小説や映画では、立山行者のいう「雪を背負って登り、雪を背負って下れ」という。その暗示どおり柴崎隊によって剱岳は登られた。私たちもその長次郎谷の大雪渓から登頂した。幸運なことに雪渓が途中で切れることもなくアイゼン(滑り止めの金かんじき)を装着してピッケルを頼りに山頂に登りつめた。現代装備と困難な技術をもってしても登ることが難しいルートから登頂を果たして一同、柴崎隊にあやかって感動したものだ。
 先日、この測量隊の足跡を追ったドキュメント映像がNHKハイビジョンの番組で放映された。映画と違い、剱岳そのものに登る前、まわりの展望のいいピークに立って測量を重ねたその苦労を丹念に再現したものであった。

  剱岳は自分にとって思い出深い山であり、岩登りを始めたのもこの山であった。四方に鋭い岩稜をそぎ落とす2999mの難峰は血気にはやるクライマーたちの修練道場として、自分たちも数多くのルートに足跡を刻むことができた。それだけに、初登当時の苦労というのが手にとるように分かる。
 この夏、今度は同じ越中の信仰の山である薬師岳から立山、剱岳まで延びるコースを縦走し、五色ヶ原、ザラ峠から越中沢岳、立山浄土山まで歩いた。この五色ヶ原やザラ峠などの尾根道も柴崎隊が歩を刻んだところである。今では要所に手頃な山小屋があってそれほど難しいところではないが、そうはいっても誰もが歩けるような易しいコースではない。激しく登り下りを繰り返す縦走路は明治期、いやそれより前から樵など土地の山人たちによって道が踏み分けられたところである。眼下に黒部川の源流を見下ろしながらかつての雄者たちに思いをはせるのも自然の成り行きであった。
 地図は大航海における羅針盤のようなものである。この詳細なペーパー情報が詰まった道案内なしにはどこの山も歩けない。山岳測量や地図製作も今では国土地理院という役所の仕事なっているが、連綿とつづくたくましい地図測量官たちには最大の感謝と畏敬の念をもって山を歩いている。