随想
ルーツ
酢屋 潔

 二年前、突然ある印刷物が我が家に配達された。
 差出人は全然未知の人でその印刷物の題名は「堺衆、酢屋一族の出来事」と書かれていた。差出人は酢谷という人でしたが、さては酢屋の名字が何やら関係あるのではと同封の手紙を読んで見ると大阪在住の人で酢屋の名字を研究しているとの事、内容を開いて見ると堺市の酢屋家の隆盛からその消長をはじめ酢屋家に関わる事は細部にわたって記されていた。調査の方法は主として古い資料によりなされていた。
 誰しも自分の家の事に関しては多少の興味を持つものであるが、しかし途中何かの壁にぶつかるとすぐ挫折するのが通例である。
 印刷物はA4判で二四〇頁あった。
 さて、この酢谷さんに頼まれたといって中年の女性が我が家に見え、酢屋にまつわる何か珍しい情報はないかと聞かれました。そこで私は吉川英治著の「私本太平記」の二巻新田帖に出ていた酢屋という商家を紹介してやりました。
 早速礼状の返事が参りましたが、それによると鎌倉幕府滅亡時に京都に酢屋を名乗る勢力があったと予想される。本当の太平記には出ていないので吉川英治は別の資料から引用したと思うと書かれていた。
 又楠木正成の研究をしている方がいまして、正成の傍系に南河内、弘川城隅屋与市正高という豪族がおってこの人の先祖が酢屋二郎兵衛といわれている。この頃は隅屋、酢屋、須屋といろんな字のすやがあった。
 そもそも明治以前、平民には苗字がなかった。明治三年九月十九日戸籍整理のため大政官布告により平民にも苗字を付けるようにと言うおふれが出た。当時国民は明治新政府を信用しておらず、苗字を付けたらそれだけ税金が来るんでないかと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしなかった。
 明治八年二月十三日、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられた。
 酢屋姓は屋号としてあったので苗字をつける時は酢屋とそのままつけたり酢谷などとした。
 全国の酢屋姓をチェックしていたら北海道にもおられた。確認すると明治になり富山県の新湊から北前船で北海道に渡り住んだという。その姓は酢谷だそうだ。 日本海側の酢谷姓は福井・富山から北上したらしい。
 明治になり酢屋が酢谷になったが「すや」と読んだり「すたに」と読んだり又「すだに」と読んだところも出て来た。
 このように屋号の酢屋が明治になって酢屋、酢谷となって全国に散っていったが、その中で注目すべきは堺の酢屋家であろう。
 堺は神功皇后三韓出陣の際に関係した古い町で瀬戸内海の東岸、摂津、和泉の堺に起った海村、堺が南北朝以降商港として栄えてきた。その後幾多の変遷を経て応仁の乱の終わる頃から京都から乱を逃れて堺に疎開する商人が多くなり堺の商業も活発化していった。堺の町に富が増加した頃市内の三方は深い堀によって囲まれていた。その後幾多の変遷はあるが古い地図が残っている。元禄二年に書かれた「元禄堺大絵図」である。この絵図には堺の全戸の名簿が存在する。その中の酢の項の中に酢屋の名前が数多く残っている。
 昭和三年一月、三浦周行文学博士が堺市史編纂の際「元禄堺大絵図」「宿屋町古図」「小西行長宅之記」という貴重な資料を参考にしている。それによると酢屋清兵衛と藤七は幕末まで唐物、薬種を販売していた。つまり二五〇年に亘り薬種業を営んで来た。
 小西行長は堺の町人で秀吉に使え出世して肥後二四万石の藩主になった。その行長宅は関ヶ原の敗戦により変遷を経ておおよそその見当はつくが確立するのは困難なようである。糸乱記出てくる小西勘太郎は酢屋治兵衛の子供であるから小西姓との関係も深い。
 福井通史よると元禄五年(一六九二年)、文久元年(一八六一年)の敦賀港長者番付がある。それには前頭であるが酢屋六郎兵衛と酢屋六左衛門の名前がのっている。文久元年には酢屋藤兵衛が前頭上位に名を連ねており、文久元年とは明治の七年前に当たり酢屋が敦賀で江戸時代を通し高賣を継続していることになる。堺の元禄大絵図には酢屋六左衛門の住居が材木町であり、同じ名前なので酢屋が堺と敦賀と両方に拠点のあることがわかる。
 「遠目鏡」で職種のわかる商人の名簿がある。それには酢屋六左衛門が四十物買問屋となっている。四十物とはあいものだそうで、今日言うところの干物だそうだ。
 京都に西酢屋町という地名がある。西だから東に酢屋という所があったのではないか。丁度龍谷大学や平安高校の建っている地域らしい。酢屋が寺院の年貢米の両替や材木商の元締だったことが予想される。というのは元禄大絵図に出ている戎島新地に酢屋治兵衛の屋敷があり、その前に西本願寺祠堂屋敷があるからである。享和三年(一八〇三年)から明治元年(一八六八年)の宗旨人別改帳に酢屋一族があるので本願寺との関連が裏づけられている。
 滋賀県長浜市虎姫町に「酢」という村がある。元亀元年姉川の合戦のあった場所で浅井長政の領地であった。この付近は錦織部といって織物や大工など他、技術を持った風段がおった。又この地域は一向衆の多いところで文明年間はその保護のもとに商いがされた。その時、屋号として故郷の酢村からとって酢屋としたと推定される。応仁の乱以降堺に進出したであろうと思われる。
 酢屋のルーツに関していろいろ述べて来たが江戸時代の事やら細かいことが書かれておりその努力のあとがしのばれるのであるが、ここに書かれている範囲内にあることは確かであり、ルーツが解明されればこんな嬉しいことはない。