随想
冤罪
菅 禮子

「いいかげんに白状したらどうだ!」
 刑事が取調室で被疑者に対してよく用いるせりふである。冤罪で十七年間、刑務所につながれた菅家さんも、度々こんな文句で自白を強要されたことであろう。
 TVドラマで、同じせりふを俳優扮するところの刑事が机を叩いて怒鳴っているのを耳にして、ふと胸の奥でキリキリと痛むものがあった。同じ言葉を昔、浴びせられたことがある。
 小学校四年の時、担任のU先生が結核のため長期休職をされ、級は二つに分けられて三組と五組に編入されることになった。わたしは五組になったが、編入第一日目にいきなり算数のテストがあった。なにしろ一ヶ月間というもの自習々々の日々であったから、学習内容がひどく遅れていた。どの問題もチンプンカンプンである。返された答案の点数は、六十三点だった。次の休み時間に教員室に、隣席のHさんと一緒に来るようにと言いつけられた。でっぷりと肥った五組の担任のI 先生は縁の厚いメガネの下からわたしたちをにらみながら「どっちが見た?」と仰せられた。
 Hさんの答案はわたしと同じ六十三点、しかも答えを間違えたヶ所もまったく同じだというのである。はじめ、なんのことかわからなかった。すると、いきなり並んで先生の前に立っていたHさんが声を発した。
「わたしは見ていません!」きっぱりとした口調だった。
「では君なんだな、隣の人の答案を盗み見て答えを書いたのは」I 先生がわたしの顔を見すえて言った。
「……」 返事ができなかった。代わりに涙がもくもくと湧き上がって、あたりが見えなくなった。先ず以て未だとったことのない六十三点という点数が情けなく、みじめだった!
 しかも一年生からずっと自他共に認める優等生の身が、今、教員室のお白州にひき据えられてカンニングをしただろうと問いつめられている…頭に血が昇ってその上屈辱の激情に声が出ない。ただ涙を流すのみである。
「見たのなら見たと正直に言え!」
「……」 涙の中で床の板目だけが見えていた。その時なのだ。
「いいかげん白状したらどうなんだ!」
 I 先生はそう仰言ったのである。
 犯人の判然とせぬまま始業のベルが鳴ってようやくお白州から解放された。教員室を出ると旧四組の子供たちがズラリと並んでいた。心配して来てくれていたのである。
「どうしたの?ネ、なにがあったの?」
 口ぐちに問いかける級友たちにHさんが言った。
「―さんがテストの答え、人のを見ないというのに先生は見たとおっしゃるのよ」
 ゲクゲク嗚咽しながらも、胸の奥でわたしはそのHさんの名演技に恐怖をさえおぼえた。
 次からのテストの時、Hさんは腕を殊更高くしてテスト用紙を囲っていた。つまりは、このわたしにテストを盗み見されないようにという意思表示を周囲の人に見せつけるためであったのであろう……しかし結果は明々白々であった。以後、わたしは腹立ちまぎれに百点を取りつづけたからである。I 先生もわかられたのであろう四組・五組をとりまぜて編成した班の班長にわたしを任命されたのだが、子供心にわたしを犯罪人のようにはずかしめたI 先生を一生許さないと心に誓った。
 そのときの様子を再現してあれこれ追憶する中不思議にHさんについては怒りも憎しみの感情も湧いてこない自分に気がついた。かえっていきなり習っていない問題を出されて、ついわたしの答えを盗み見して書いた時の、追いつめられた、それこそ藁にでもすがりつきたかったその心情を思いやると、憐びんの情にさそわれる。自分の罪をひた隠して「わたしは見ていません」きっぱり、はっきり言いきった彼女が、どんなに必死の思いでそう言ったのか――思えば哀れである。
 ただ情けないのは自分だ。なぜ、その時泣いてばかりいないで「絶対!わたしも見ていません」ときっぱり堂々と言えなかったのか……
 やっぱりネ!思いあたってわたしは思わずニンマリ納得した。まさしく我こそは“口が重い”と言われる東北人の血を承けているのだ!と。
 Hさんはその後女学校二年(現高校)の時急性盲腸炎で亡くなられた。それ以前にも彼女は小学校一年の時に電車に轢かれたことがある。色の白い、ふっくらした丸顔で、赤いワンピースに青々とした坊主頭のその当時は他級の女の子の姿を、奇異の思いで見ていたわたしは、やがてその奇禍を知った。頭に受けた傷の治療のため、髪の毛を刈られていたのだった。彼女の卑劣極まりない言動に対してわたしが寛大なのは、このような悲運に見舞われつづけた彼女の幸薄く短かった半生を悼む気持が底にあるのかもしれない。
 彼女はどんな時にも必死にけん命に生きようとしていたのだ。許してやろう…と。ついでに先生も。

 菅家さんのご出身地がどこかは知らないが、このひとも口下手なのではなかろうか?――刑事に問いつめられ畳みこまれて、なんと申し開きしたらよいか、言葉の出てこない状態というのがよくわかるような気がする。