会長の言葉

源八翁筆塚 会 長 菅原 三朗

 我が郷土、潟上市昭和には偉大な先覚が二人いる。一人は県の農業行政に従事し、米質改良指導、種子交換会、現在の「秋田県種苗交換会」の創設者として知られるなど、多くの業績を残し「農聖」といわれた「石川理紀之助翁」(1845〜 1915)である。
 もう一人の先覚は「菅原源八翁」(1794〜1879)である。潟上市昭和大久保新関の旧羽州街道添いに高さ約2.5メートルの石碑がたっており、市指定の文化財になっている。江戸末期に大久保村で、現在の首長職に相当する肝煎であった、菅原源八翁の功績をたたえようと建立された「菅原源八翁筆塚」である。「翁の遣特は千年経っても忘れられることはないだろう」と言う文言が刻み込まれている。
 源八翁は大久保新関地区の農家に生まれ、地区の長名役(副村長)だった父親の死去に伴って二十一歳で役職を継いでいる。特筆すべきは、翁四十一歳の天保四年(1833年)の「天保の大飢饉」の際、三百両を超す私財を投じて難民を救済したことである。翌1834年に秋田藩から名字帯刀を許され、佐竹の家紋入りの裃を贈られている。
 源八翁は、1843年から56年まで肝煎として行政手腕を発揮する一方、独学で医学や華道・茶道・誹諧などを学び、住民の指導につとめた。裃をはじめ愛用の薬研、花器、その他の著作資料等は、昭和大久保新関の湖南交流センターにある「菅原源八翁資料展示室」で見学することが出来る。
 筆塚は源八翁を慕う子弟達が、翁存命中の1870年に建てたもの。名称は建立時に子弟達が使用していた筆を埋めたことに由来する。裏側には、子弟八十四人の名前と住所が刻まれており、昭和地区や天王地区、秋田市、男鹿市などの地名も見られ、広く信望を集めていたことがうかがえる。
 翁は肝煎の大役を解かれた後、元木村に別宅を設け「一松軒三石」と名付け、晴耕雨読の生活を始め「日ぐらし草紙」を手始めに数多くの随筆著作を残している。総じて内容は当人の体験や、折々の感想を綴ったもので、幕末から明治維新前後の急激に移り変わる世相に戸惑う民情の姿を、東北地方の一庶民の目線で鋭く捉えたもので、当時の世相をうかがい知る貴重な庶民生活の記録である。
 同センター展示室には、石川理紀之助が源八翁の死後の1899年、その功績をたたえ贈った感謝状も展示している。しかし郷土の先覚である源八翁の知名度は石川翁に及ばず、筆塚や資料展示室を訪れ る人も少ない。
 地元の菅原源八翁顕彰会では、会の活動を通じ源八翁の功績をもっと広く県民や市民に知ってもらいたいと願っている。