随想
高清水岡の思い出
永井 登志樹

 まだ冬の寒さが厳しかった3ヵ月ほど前、男鹿半島南海岸の磯辺(地元では南磯という)の女川漁港で磯浜に群れる海鳥たちを眺めていたら、防波堤内を見慣れぬ鳥が2羽泳いでいるのが目にとまった。もしかすると、と思って、あわててデジタルカメラで撮影し、家に帰って図鑑で調べてみたら、やっぱりコクガンだった。
 日本には冬鳥として渡ってきて、主に北海道南部の函館湾、青森県陸奥湾、宮城県松島湾などで越冬しているそう だが、渡来数はマガンの60分の1ほどという。国の天然記念物で、環境省のレッドリストの「絶滅危惧II類」(絶滅の危険が増大している種)にも指定されているから、どこでも普通に見られる鳥ではない。
 コクガンは何といっても、首に帯状の白い環が見られるのが特徴で、その名の通り全体に黒っぽい色をしている。 マガンより小さく、見慣れた大型のカモメ類の中にいると、とても可愛く見える。雌雄同色というから、私が見たのは成鳥のつがいだろう。7、8年前だったか、地元の新聞に男鹿の南磯で数羽のコクガンが飛来しているのが確認されたと載っていたので、この鳥の名前だけは知っていたのだが、実際に見たのは初めてだった。
 男鹿半島では時にはこうした珍しい渡り鳥も飛来するが、ふだん目にする印象的な鳥としては、ウミウやアオサ ギがあげられる。ウミウは男鹿の岩礁地帯ではなじみの深い海鳥で、日本の渚百選に選定されている鵜ノ崎という地名も残っている。また、アオサギは男鹿半島の真山・本山地域にコロニーを持っているらしく、鵜ノ崎の浅瀬でじっと立っている姿をよく見かける。ただ、この鳥はウミウやカモメ類と違ってほとんど単独で行動しているせいか警戒心がとても強く、少しでも人の気配を感じるとすぐに飛び立ってしまう。高倍率の望遠レンズを持っていない私は、これまでアオサギの写真を上手く撮れたためしがない。
 コクガンは別にしてウミウにしろアオサギにしろ、男鹿の海岸では昔から普通に見られたはずなのだが、こうした 野鳥に興味を持つようになる前はあまり目にした記憶がない。興味がないからそこに存在していても、視界にはいらなかったのだ。まあ、野鳥にかぎらず、私たちが見ているもの、世界の成り立ちそのものが、個々人の主観的な思い込みが生みだした幻影にすぎないともいえるのだが…。

 私がバード・ウォッチングに目覚めたのは今から15年ほど前、秋田市の高清水岡のふもとに住んでいた時だった。ようやく風の冷たさがやわらいだ春先の暖かい日、散歩コースだった高清水岡へ登る雑木林の中で、頭上を野鳥がさかんにさえずりながら飛び交うのを見ていたら、なぜか突然鳥の名前を知りたくなり、すぐに双眼鏡を買い求めた。以来、散歩に出かける時は必ず双眼鏡を携帯するようになった。
 バード・ウォッチングのビギナーは誰でもそうだと思うのだが、そこが野鳥たちの棲息場所だと知った時から、全く気にもとめていなかった森や水辺が今までと違ったものに見えてくる。そして飛来する野鳥によって季節の推移を知るために、鳥類図鑑が手放せなくなってしまうのだ。
 高清水岡では、野鳥のほかに樹木の花も季節を教えてくれた。
 岡の上に鎮座している秋田県護国神社の参道では、春になるとヤブツバキが深紅の花を咲かせる。ヤブツバキの群落としては、椿自生北限地帯として国の天然記念物に指定されている男鹿市の能登山が有名だが、ここのものは自生ではなく植栽されたものと思われる。樹高、枝ぶりとも立派で、柔らかな早春の陽光を照らす厚ぼったく濃い緑の葉が、北国に春の訪れを実感させた。
 ニセアカシアは繁殖力が旺盛なせいか、丘陵全体を覆うほどになっていて、初夏は甘い花の香りが漂った。私はどちらかというとこの花の香りはニガ手だが、6月の雨に濡れた白い花弁の下を歩くのは悪い気分ではなかった。
 高清水岡は桜の名所としても知られている。岡の北側斜面の坂道には、ソメイヨシノの老樹が並木をつくっていて、日当たりがよくないのが幸いしていたのだろう、開花してからもなかなか散らなかった。毎年、花吹雪の中を歩くのを楽しみにしていたものだった。

 高清水岡はいうまでもなく、国の史跡に指定されている秋田城跡である。奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁跡とされるが、初めはその重要性がよく理解できなかった。しかし、発掘調査による出土品を保存展示している収蔵庫を時々のぞいたり、岡に点在する遺構をめぐっているうち、北方交易・交流の拠点でもあったというこの城跡の全体像がおぼろげながら認識できるようなったことは、古代史は専門外の未知の分野であった私にとって大きな収穫であった。
 私が高清水岡のふもとに住んだのは1991年から1995年までの4年間であったが、ちょうどそのころから発掘調査によって明らかにされた住居跡や井戸跡などが復元され、歴史公園として整備が進められた。なかでも1994年から3年かけて実物大に復元された外郭東門と築地塀は、今では秋田城跡のシンボルといっていいほど風景にとけこんでいる。その後も数年前に政庁跡が復元整備され、今年4月には古代水洗厠舎(かわや)が完成した。
 古代水洗厠舎の遺構は外郭東門の東側にある鵜ノ木地区で発見されたもので、建物の中の便槽から木の樋が沈殿槽のある沼地に伸び、そこに排泄物を流し込む仕組みになっている。いわば古代の水洗トイレのような構造。私も早速見学に行ってみたが、古代人がこのようなものを本当に考え、実際に使用したとは、にわかに信じられない思いがした。
 野鳥、季節の花々、そして古(いにしえ)の歴史…。それぞれが強いインパクトをもって私を誘い、新たな世界へと目を見開かせてくれた高清水の岡。私にとってこの岡は思い出深い忘れ得ぬ場所である。

秋田城跡内に復元された古代水洗厠舎