随想
ニゾもサンペも食べ物噺
あゆかわ のぼる

 全くとまでは言わないが、私には、食についての拘りはほとんどない。特に、「あれを食べたい」とか。「これを食べたい」という願望はないといっていい。
 嫌いなものもそれ程ない。
 しかし、泥鰌は食べない。それには理由がある。
 若い頃、友人と居酒屋で飲んだ時、その友人が泥鰌を注文した。鍋の中に豆腐と生きた泥鰌が入っていて、それを七輪の上にあげ、汁が熱くなると泥鰌が豆腐の中につき刺 さる。それを美味しいと言って酒の肴にしているのを見て、私はその残酷さに目を覆い、以来、泥鰌を食べない。もち ろん、それ以前にも食べた記憶がなかった。
 蛙も食べない。
 20年くらい前、ある宴席に蛙が出て、美味しいから食 べてみろとすすめられて断ると、「鶏肉と同じだ」と言うので、「じゃ鶏肉でいいじゃないか」と答えた。
 豚足も食べない。
 6年前に韓国に行った時、ディナーに豚足が出た。まわ りに囃立てられ、「えいっ」と、気合いを込めて食べてみた。結構美味しかったが、帰ってきて平常心に戻るととても食べる勇気がわかない。
 並べてみると結構あるが、どちらかというとゲテモノ風に弱いようだ。
 まれに高級料亭に行けば、雑炊やおじやが出てくることがあるが、それもあまり食べたくない。戦後の食糧難時代、食べ盛りだったが、よくゾセケ(雑炊粥)を食べさせられた。サツマ芋や南瓜や大根の葉などがワンサと入っていて、不味かった。それが骨絡みになっている。
 キリタンポは比内地鶏に三関のセリとか、えぶりがっこは山内に限るとか、しょっつるは発祥の新屋モノだとか、稲庭うどんもいいが、その師匠格の本荘うどんもさすがだ、などと蘊蓄を傾ける気もない。
 別の言い方をすれば、食えるものなら何でも美味しいし、食文化とか食の開発にはそれ程関心がない。
 そんな私でも、秋田は食文化の豊かな、食の宝庫だと、常日頃思っている。
 先程、知ったかぶりで列挙したものに、ハタハタとか、だまこ鍋とか、トンブリ、じゅんさいなどを加えると、十分に自慢できる極上の食である。
 お菓子だって、金萬は秋田土産として不動の4番バッターだし、しとぎ豆がきは、秋田の米の消費にも大きく貢献している。
 横手焼きそばのように、昔から地元で食べられていたものに光を当てて、全国に知らしめたものもある。
 こういうものを日常的に食べ、外に自慢し、客をもてなし、旅の土産に持って帰って貰い、あるいは手土産にする。いずれも秋田の心と味が染みているものばかり。
 ところが、なにが不足なのか、最近やたら騒がしいのが、「新しい秋田の食の開発」。ちょっとオーバーに言えば、毎日のようにメディアに登場する。
 曰く、「スイーツ売り込み作戦」、「新作料理試食求評会」、「オリジナルかやき」、「男鹿焼きそば」などなど。なにか、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的様相。
 しかも、何やら胡散臭い無国籍風≠燒レに付く。
 まことに不思議な気がする。
 秋田県には一時、自治体が梃入れしたそば作りブームが起こった。
 それなりの理由があってその昔手掛け、長い間かかって築き上げた由利本荘市鳥海の百宅そばや、八峰町峰浜の石川そば、能代市の鶴形そばなどは由緒あるが、減反政策や観光開発のためのこじつけ、俄か仕立てのそば作りが、さて、その後、どうなっているのやら。
 稲庭うどんの郷でも、今度『稲庭ラーメン』を売り出すという。余計なことだろうが、うどんのイメージが薄まりはしないか、と心配になる。
 稲庭うどんは、その前にやることがありそうに思う。
 名古屋のきしめん、四国の讃岐うどんとともに日本3大麺と言われているが、贈答品か高級食のイメージが定着し、他の二つの麺に差を付けられている。
 普段、フラリと食堂に入って食べられるものではないし、食べて、千円札を出して、釣り銭が来るか来ないか心配な値段。大衆性が乏しいのだ。
 讃岐うどんなどは1杯百円か二百円だという。
 以前、稲庭うどんも、手軽に食べられるようにしようという機運があったが、その後、どうなっただろう。
 ラーメンを作るより、そっちにエネルギーを注いだら、と思うのは老婆心だろうか。
 何でこういう現象がバッコし始めたのだろう。
 もしかすれば、7年くらい前、県が立ち上げた『チーム21』とかいうプロジェクト。
 どういう成果を挙げ、今、どうなっているか知らないが、立候補制の選りすぐりの県職員を競わせ、市町村を巻き込んで活動した。その中に食≠ェあった。
 その残滓かもしれない。
 以前、仙北市田沢湖で『やまのいも鍋』というのを開発 し、キリタンポやだまこ餅に次ぐ第3の鍋を目指した時、その心意気に賛同して、雑誌に2度ほど写真付きで紹介文を書いたことがあるが、なかなか定着しないようだ。
 新しいものを作り、それなりの地位を占めることは、それ程難しいものなのだろう。
 ましてや、秋田に食の魅力は溢れている。何を今更次々と、新しいものを作らなければならないのか。
 秋田衆はせっかちなのか。ええふりこぎで新し物好きと言われるが、それが食の分野でも疼くのか。
 一方で、しょっつるが、香川のいかなご醤油や能登のいしるなどとともに、日本3大漁醤と言われているのに、県内では、そういう付加価値の高いものだという意識はあまり感じられず、しょっつるの使い方や使った料理の開発にあまり一生懸命だとは思えない。せいぜいがハタハタのしょっつるかやきぐらいか。
 私は、数年前、森岳温泉に、本格的大掛かりなじゅんさい積み取り体験と、じゅんさいのしょっつるかやきを大看板にしたらどうか、と提案したことがあるが、その後、どうなったかしら。
 食は本来、歴史で文化なのだ。身の回りにあるものを磨き育てることが大事で、あまりいじくりまわしたり、やたら新しいものを作り出すと、在来のものが駆逐されてしまう恐れがある。
 かつて、シンガーソングライターで異能の画家、しかもなお、新進気鋭の競輪評論家の畏友、友川カズキから、生前のたこ八郎とともに『日本3大無味覚人』という称号を授かった男は、そんなことを思ったりする。