随想
モサラベとムデハル
酢屋 潔

 何所の国でも固有の文化というものをもっているものである。そして或る国を征服したり、されたりした時はどうなるか。
 征服した場合は大体被征服地の既存の文化を破壊し自分達の文化を発展させるのが普通である。
 これから述べようとする文化はスペインにおける特異な文化でピレネー以西はヨーロッパでない、と人をしていわしむる所以である。
 スペインは西暦710年にイスラムがイベリア半島に侵入し、またたく間に大部分を占領してしまった。しかし、統治するに彼等は寛大な方法をとった。これがモサラベである。キリスト教徒はイスラム世界における公認された異教徒として扱われ人頭税を払えば定住することを許された。その様な統治形態の中で文化の融合が構成されていった。
 これを建築を例にとると興味があるような気がする。例を有名なアルハンブラに取ると先ず日本とは全く異質な建築に驚かされる。外から見ると古ぼけた煉瓦のはげ落ちた塔や建物が小高い丘になんの変哲もなく建っている。私は何ういう風の吹きまわしかこの宮殿に三回も行っているので内部の様子は大体頭に入っている。アルハンブラとはアラビア語の「赤い城」からきているそうで、その赤い様子を見るため、その向かいの教会までタクシーを走らせたことがある。多勢の人が夕日の落ちるまで眺めていたがとうとう赤くはならなかった。赤くなるのは何時なのだろうか。
 さて、それはさておき、この城に入るには「さばきの門」をくぐらなければならぬ。煉瓦を積みあげた頑丈な門で美的な面より防衛の目的で建てられたものだろう。門の上に人間の手形が彫ってありコーランの五戒を意味しているという。門を抜けるとメファールの間(謁見の間)とういところに出る。この部屋はアルハンブラでも最も古い方に属し昔の面影が残っているという。はじめ法廷として使われていたが後私的な謁見室として使われた模様である。ただし十六世紀以降は礼拝堂の役割を果たした。この部屋で驚くの壁面の装飾だろう。幾何学的文様をはじめとして組み紐文様及びアラビア文字文様で壁面は覆われている。この文様はこの部屋にかぎらずアルハンブラの各部屋に用えられている。線をたどったりすれば目がくらむもので面全体として見た方が良い。それにしても人をして不思議な感覚におち入らせる。これらの文様は皆石膏の平面に描かれたものである。
 この部屋をあとにし小さな部屋を通ってすばらしい明るいところに出る。ここがコマレスのパチオ(中庭)と呼ばれているところでこの城の見所の一つになっている。南北に長い長方形のパチオで大きなプールのような水槽が目に付く。その両側にミルトという生垣のような植物を植えている。そして北側にはコマレスという塔がそびえて水面に影をおとしてアクセントを造っている。北側は五連のアーチがその上に七連のアーチを頂きすばらしい簡素の美を支えている。
 このパチオから小さな部屋を通ってライオンのパチオに出る。このパチオはコマレスと違って南北よりも東西に長い。十字の水路により四つの区画に分けられ中央に十二頭のライオン像で取りかこまれた泉水盤を据えている。アッシリアから移されたと伝えられる黒大理石造りのライオン像は顔面が一般のライオン像と異なり一種独特の貌をしている。ライオンの口から水が流れているが時間がくればその位置のライオンの口から勢いよく水が噴出するというが之は後世造ったものだろう。このパチオは全く王家の私的住処であってアルハンブラにあっても最も華やかで優婉である。周辺の回廊を支える百二十四本の白大理石の列柱は清楚乍ら甘美な感情をもようさせ、椰子の樹立のイメージだそうだ。そしてその上部、さらにその上の厚い軒蛇腹の部分を隈なく蔽っている美しい漆喰装飾は椰子の樹の大きな葉になぞらえている。これは案に砂漠の中のオアシスをイメージしたもので逸楽の園である。アルハンブラ全体としていえることはふんだんに何の部屋も水を使っていることで、これはシエラネバダ山脈から引いたもので大いに活用されている。
 この他にも「諸王の間」とか「二姉妹の間」などあるが長くなるのでやめておく。専門家達はモサラベの特徴をむずかしい理論で表現しているが要するにイスラム統治下の中で彼等の技術を習得した造形技術なので極めてイスラム的なことはいなめないだろう。しかしその中でも柱廊とか平面の馬蹄形使用で特色を見出した。
 ムデハルはレコンキスタ(国土回復運動)でイベリア半島からイスラムを駆逐してそのあと残ったイスラム教徒で色んな建築に名を残した。
 セビリアのヒラルダの塔は四角な煉瓦の塔で高さは七十米にも及ぶ。その上にゴシック風の建物が十六世紀に増築されている。今迄敵であった建物をこわすことなく平然と付け足して自分たちの建物にしたこの精神状態こそムデハルであろう。この塔は渾然としてこの都市に溶合してシンボルとして名を高めている。単に建物をつぎ足しただけなのに文化的には融合が行われてこの町に融け込んでいるんだろう。この他色々特色ある建築もあるようだがやはり宗教など精神文化でより特色を発揮しているようだ。