随想

置賜の旅行記

藤原優太郎

 山々が雪化粧をほどこす初冬、米沢市周辺を歩いて来た。部分的ではあるが、秋田と山形両県に高速自動車道が延びたことで米沢までもだいぶ時間短縮ができるようになった。国道13号、上山市から南陽市赤湯へぶどう畑が山の斜面に広がる中山峠を越すと、そこはもう山形県ではないような錯覚に陥る。江戸時代の藩領が異なるせいもあるだろう。しかしそこは山形でもなければ福島でもないような一種独特の風土性が感じられる。地形地理的な側面からいえば、蔵王連峰を離れて山脈が吾妻連峰にシフトし、赤湯、高畠、米沢はさしずめ置錫県といえばぴったりするような広々とした盆地である。
 旅の目的は板谷峠の峠駅まで行って「峠の力餅」を取材するものであった。峠駅は以前、鉄道がスイッチバックを繰り返していた奥羽本線の難所で、昔も今も「峠の力餅」が名物である。簡単な取材を終え、旧羽州米沢街道に沿って米沢の市街地に下った時は日没が迫っていた。米沢はいく度か訪れたことがある。20数年前、市内の史跡探訪したことを思い出し、翌日、記憶の糸をたぐりながら数か所をまわってみた。

 春日山林泉寺という米沢藩ゆかりの古刹がある。藩の名家老として名高い直江兼続の墓所に行ってみようと思った。この武将は来年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公となる。そのせいか、市内のどこへ行っても観光客が多い。ドラマの舞台となる城下町探訪を先取りしようとしているのかも知れないが、自分の目論見はそれとは関係ない。
 以前訪れた林泉寺は人影もなく静かなたたずまいであったと思うが、今はボランティアガイドの方たちだろうか、多くの参拝客の案内をしていた。寺院の内部はそれほど関心を引くものはなかった。
 山門と本堂の中間奥手にある墓所に行ってみた。前と違って今は分かりやすい案内板があり、上杉家墓所、武田家墓所、直江山城守兼続夫妻の墓所などがそれぞれ別々に立ち並んでいる。上杉家墓所には米沢藩初代景勝の生母、仙洞院はじめ、景勝に輿入れした武田信玄の4女、甲州夫人菊姫の墓などがあった。

 少し奥まったところに直江兼続夫妻の墓がある。上杉家に仕えた武将の直江兼続については今ここで説明をするいとまはないが、ここでは同じ林泉寺墓所に眠る水原(杉原)常陸介親憲という上杉家家臣の武者について少し語りたい。

 関ヶ原合戦後、徳川幕府から大阪冬の陣に駆り出された諸大名の中に、上杉景勝もいたし、秋田藩の佐竹義宣もいた。渡部景一氏の『佐竹氏物語』によれば、この時、佐竹勢は家康の命を受けて玉造口に布陣、その後、景勝軍と協力 して今福の敵(豊臣方)の排除を命じられた。そこは大阪城周辺の重要拠点で、敵陣には後藤又兵衛や木村重成らの武将がいた。この戦では佐竹勢が一時苦戦を強いられ、重臣渋江政光ら が壮絶な戦死をしている。
 結果的に今福で勝利をおさめた佐竹、上杉連 合軍は徳川将軍から特別に感謝状をいただいている。佐竹方の資料では、この今福合戦の勝利 を自軍の手柄としているが、一方の上杉方から見るとまた少し違っている。佐竹義宣隊が大阪方に攻められ潰乱しようとした時、家康は景勝のもとに「佐竹を救援せよ」と使番を走らせたという。そして送られた上杉方鉄砲隊の杉原常陸介親憲らが大阪隊を城に追い込んだ。杉原常陸は大名ではなく陪臣の身分ながら家康から異例の謝状を受けたということである。
 窮地に陥った秋田勢を助けた武将がここに眠っていると思うと感慨もまたひとしおのものが ある。米沢というところは謙信以来の質実な気風がただよっていると感じる。それはそのあと行った上杉歴代藩主の御廟所でも感じた静かで強い思いである。