随想

ゾーリンゲンの鋏

酢屋 潔

 我々が日常何気なく使っている鋏が一般に普及されるようになったのはそう遠い昔でない。
 鋏は相対する二枚の刃を摺り合わせ物を挟み切る道具である。梃子の原理を利用したもので支点の位置により元支点形、中間支点形、先支点形の三つに分けられる。元支点形はU字形に曲げられた「ばね」のところが支点になっている。これを握り鋏、和鋏という。
 中間支点形は一般に裁ち鋏、ラシヤ切りなどといわれている。これははじめ羊の毛を刈るのに使われていた。先支点形は特殊な鋏で葉巻などを切ったりする。
 鋏は中国から輸入されたもので古くは和名類聚鈔の容飾具と鍛活具にホ刀(波左美)とあり裁縫具としては煎刀があげられている。
 さて、鋏の歴史をたどれば紀元前100年頃ギリシャで作られたのは元支点形、握り鋏と同形のもので主として羊毛刈りに用えた。ローマ時代、前27年の遺物とされる鋏は中間支点形で今の洋鋏の形状となっている。日本最古の鋏は七世紀の古墳から発掘された。奈良県の珠城山古墳からの出土品で元支点形である。
 江戸時代、久能山に徳川家康遺品の鋏、藤原信吉作は特に日本鋏と記載されている。
 鋏が庶民の生活用具として定着したのは江戸時代後期寛政年間以降で鋏を作る専門の職人もあらわれて生活量も増えた。
 布地の裁断のようなのは中間支点と呼ばれる裁ち刃と呼ばれる包丁に似た刃物を用えるのが一般的で細部は元支点形の鋏で処理した。
 1874年ラシヤ切り鋏が輸入されてからは断髪令で理髪の鋏の需用が多くなり日本人の手に合うように、そして日本刀の切れ味をそなえた鋏を製造した。
 日本はドイツに次ぐ刃物の輸出国で新潟の三条市、岐阜の関市、大阪の堺市など生産量が多く輸出をしている。
 鎌倉鶴岡八幡宮には北条政子の御白河法皇から頼朝に賜ったという菊の紋入りのU字形の握り鋏があり、この形としては日本最古で化粧具の一種で髪切りに用いられた。
 室町時代熊野速玉本社(和の山)に他の化粧具と共に手箱におさめられて青銅の一五糎の握り鋏がある。
 これは1390年に献進されたもので日本では今でも使われている。これは室町時代に発生したいけばな鋏とかかわりが深い。池の坊では現在でも他の流派と違った鋏を用えているがかたはし扱でにぎりから刃先までの距離が長く、切る力が非常に強い。

 前おきが大変長くなってしまったが、私がヨーロッパ旅行のツアーに参加したのは今から30年位前だった。何しろはじめてだったので何が何だかわからないうちに旅程は進みドイツのロマンチック街道をすぎてフランクフルトに着いた。その時バスの中で添乗員がゾーリンゲンの刃物の話をした。ドイツは世界一の刃物の輸出国だとか、その大部分はゾーリンゲンで製造されているとか又ゾーリンゲンの名前をつけて売り出すものには強い規制をもうけているとか又その会社の規模でも大会社が二社ありヘンケルズとWMFで創業200年以上の老舗である。特にヘンケルズの二人の人間の立ち姿のマークは世界的に有名である。
 ところでフランクフルトに着いたら添乗員がとある店へと我々をいざなった。
 何とそれは刃物の店だった。店内にはゾーリンゲンの刃物が所せましと陳列してあった。あらかじめ聞かされていたのでツアー客は夫々品物を物色、いろいろ買いこんだようだが私はあまり興味がなかったので只見るだけにした。しかし、引きあげ間際に爪ののびているのに気が付き全長十糎位の小さな平凡な鋏を買った。この鋏、旅行中に使ったがなかなか便利だった。
 そこでなくしないように旅行が終わっても大事に使うことにした。この鋏こまわりがききまことに便利だった。鼻ひげきりから封筒の開封、薬の仕分け、小包の紐切り、爪切りは勿論のことだった。何しろ切れ味が良いので使っても気持ちが良かった。使うほどに切れ味もおちてくると思っていたが依然として切れ味がするどい。特に先端まで切れ味が伝っているのが気持良い。よく見るとこの鋏の連結部に二人の立ち姿のヘンケルズのマークが印されている。
 何しろ小さいものだから時々なくなることがあり中ばあきらめているといづこからともなく現れて私を喜ばせてくれる。
 30年以上も使って切れ味が落ちないのは不思議である。回数にすれば何万回ということになる。連結部を見れば何の変てつもないボールトで連結しているだけである。このボールトには一本のみぞが掘ってあるがこれは連結部があまくなれば締めるものだろうが今のところいじらない。この連結部を見て考えた。何のへんてつもないところに秘密がある。我々建設業者も苦心惨憺した箇処も完成してしまえば何のへんてつもなく見逃してしまうほどである。ことほど左様に苦心のあとは出来てしまえば見すごされ勝ちなものである。私はこの鋏の連結部をながめ乍ら先人の苦労をしのび愛用している。