随想

教育白書 −時代のカリキュラム−

菅 禮子(作家)

 若い頃、151センチだったわたしの身長は、今は147.5センチ…くらいに縮んでいる。幼いころ好き嫌いの激しかったわたしは、母がわざわざ定期購入してくれた牛乳を、飲んだふりをしてこっそり流しに捨てるという毎日、その上魚が嫌いだったから、背が伸びなかったのは自業自得である。
 それなのにわたしは母に向かってぐちめいた文句を言った。
 「わたしの背が低いのは、母さまからの遺伝よ、きっと…」その時、やはり背丈のない小柄な母はおもむろに答えた。
「山高きを以て貴(たっと)からず、樹あるを以て佳しとなす」
 わたしはそんな昔の詞でごまかされないぞーと心中に反撥したが、不思議にその詞は心の奥に棲みついて、劣等感を抱くことなくそれからの人生の支えになった。
 もう一つ母について忘れ難い記憶がある。
 女学校二年の頃、明日の漢文の時間に、朗読の順番に当たっていたわたしは、その夜茶の間の卓机の上に教科書を立てて練習をしていた。
「松尾芭蕉ハ伊賀上野(コウヅケ)ノ人ナリ…」
 最初の一行を声をだして読むと、傍で今で言えば床暖房の“温突(おんどる)”という油紙を厚く貼った床を、ぬれ雑巾で拭き掃除をしていた母が傍から口をはさんだ。
「マツヲバショウハイガウエノノヒトナリ」
 上野を「コウヅケ」とわたしが読んだのは赤穂浪士の討ち入りで首をとられた吉良上野が頭にあったのであろう。音韻から言っても響きがいい−母は上野という熟語の“コウヅケ”という読み方を知らないんだ−心ひそかにわたしは思った。すると母はしきりに手を動かしながら繰り返した。
「マツヲバショウハイガウエノノヒトナリ。」
 断固としたそれは自信にみちた口調だった。
 その語気に押されて、半信半疑のまま翌日の漢文の時間、わたしは起立して教科書を両手で持ち、母が直したように読んだ。
「マツヲバショウハイガウエノノヒトナリ。」
 すると案の定、教室中から一斉に訂正の声が上がった。「コウズケ」「コウズケ」
 横目で担当教官の方をうかがうと三宅範忠(みやけのりただ)という武士(さむらい)みたいな名前の先生は、なにも言わない。−間違いじゃないな−
 わたしは確信を持った。そのまま級友の声を無視して読み進んだ。読み終わって着席すると「では、わたしが範読する」とおもむろに先生は範読をはじめた。朗々とした実に佳い声だった。
「マツヲバショウハイガウエノノヒトナリ」
 声なき声で教室がざわめいた。母の言う通りだった。−母を信じてよかった!−わたしは胸が熱くなった。
 それにしてもだ。四人の子を持って日々、炊事、洗濯、拭き掃除と家事に追われる一介の主婦の母がなぜ、こういう知識・学識を持っているのだろうか?それは長い歳月の間、わたしの胸中を大きく占める謎であった。

 やがて年を取って、時代の流れというものを観るようになって、やっと長年の謎がとけたように思える。即ち明治初期の子達は、たいてい寺子屋や塾に学び、主として漢文(四書五経)の素読と解釈が基本的な教科課程(カリキュラム)であったのだ。中には学ぶことのできない貧しい子達もいたであろうけれど大方(おおかた)の人は一応漢学の素養は共有していたのではなかろうか。
 先頃テレビドラマ「CHANGE(チェンジ)」の最終回で…K・Tというタレントが首相の座を去るに当たっての最終演説を演じていた。15ページだか15枚にわたるせりふをよく暗記したものだと、日中の番組でキャスターはじめ居並ぶコメンテーター達が交々(こもごも)舌を巻くという感じで賞揚し、礼讃(らいさん)していたが、恐らく昭和ヒトケタ生まれの70〜80代の人は「何をそんなに感心している…」いささか白けた気持ちで観たのではなかろうか?
 なぜなら、昭和、昭和、昭和の子どもだ。ボクたちは♪−の歌で育ったわたしを初め昭和生まれの子達は小学校国語読本巻十一・巻十二共に全文暗記していたからだ。−一、吉野山“吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり”全山桜に包まれたる光景、まのあたりに見るが如し−から始まって、全巻強制的に丸暗記させられた。15ページ、15枚どころではない。
 勿論入学試験のためである。時間割は補習という名目で七校時まであった。そのころになると日はとっぷり昏れて、照明設備のない真暗な教室で「西山荘の秋」を全員で朗読していた。勿論字は見えない。見えない文を記憶で読んでいたのだ。国語読本でなくとも他にも強制的に暗記させられたものがあった。「教育勅語」「国民精神作興二関スル詔書」「青少年二賜リタル勅語」
 軍隊に入った男性達は「軍人勅諭」。厖大な頁数を一字一句暗記しなければならなかったと聞く。
 一月一日、紀元節・明治節 折々の式日に「教育勅語」を学校長がうやうやしく奉読するのを、わたし達は初めから終わりまで頭を垂れて聴く。冬場などは鼻水が鼻から糸をひいて垂れ下がるのには大いに困った。昭和の時代はまさに「暗記」によってカリキュラムが成り立っていたと言える。
 しかし、K・Tはなかなかの根性の人らしい。認めるべきは記憶力ではなく、その豊かな感性であろう。そして、今、親、子、妻、夫、無差別な人殺し、汚職、収賄、偽商品、なんでもありの、まさに百鬼夜行さながらの世相の一方でK・Tのような感性に溢れた若者たちのいかに多いことか。宝石のように輝く、果物のように瑞々しい彼ら−時代の象徴とも言うべきその特性を見逃してはならない。
 外交も大切だが、教育は国の礎であろう。首相は先ず脚下を照らし観るべきだ。飢えた狼のように行き場所を求めて彷徨(さまよ)う若い魂達に対して、「頂門の一針」というべき平成のカリキュラム「教育白書」を今こそ世に問うべきかと思うが、どうだろうか。