随想

地球の危機は地域の危機

藤原 優太郎

 ここ数年、異常気象が叫ばれ世界全体がすべての意味で異常な事態に直面している。身近な話題としては原油価格の高騰や食糧環境の危うさが私たちの暮らしを直撃している。
 今さらという感じもするが、地球温暖化にともなう二酸化炭素の排出が問題になり、まもなく洞爺湖サミットでその削減などについて世界の首脳が会議を開こうとしている。成果はあまり期待できそうもなく、主要国がそれぞれ異なる思惑をもっているだろうから解決に大きな前進が見られるとは思われない。
 今、私たちの一番の関心事は天井知らずともいえるガソリン価格の高騰である。毎日、車を走らせる、特に交通環境の悪い地方でその圧迫感はひどいもので、あちこちから悲鳴が沸き起こっている。報道によれば、これは何も日本だけのことではなく、世界各国の切実な問題であるようだ。一部の金儲け主義の投機筋がなんとも憎い。
 これは20世紀、さらに21世紀の始まりにかけて膨大に蓄積された石油依存の経済体質が招いた結果といえばそれまでだが、大量生産、大量消費のつけをこれからさらに負担しなければならないということだろう。それにしても政治の貧困が情けない。
 毎日、新聞やテレビが伝えるニュースは、八方ふさがりの暗いものばかりで、そうした劣悪な環境のせいか、意味不明の不可解な事件まで至るところで頻発している。
 これらはすべて地球温暖化による環境の変化と無縁ではなく、海水温の上昇でハリケーンやサイクロン、台風、水害、地震などなど、どちらを向いても悲惨な出来事ばかりである。とても洞爺湖で解決できるような問題ではないような気がする。
 昔、怖いものは地震、雷、火事、親父と言われたけれども、今、怖いものは、地震、竜巻、山火事、台風、水害、殺人事件など、親父の代わりに怖いものランクにオッカァが入っているのが大きな変化だ。これも頭が生温く温暖化したせいかも知れない。

 食糧事情の変化も不気味である。石油の代わりにトウモロコシから油を生産するバイオ燃料が台頭する気配があることもさまざまな問題を生みそうだ。大きな無駄づかいを助長する大量消費には踏み込まず、経済的理由から大量生産のみに固執する政策はいかがなものかと思う。ごまめの歯ぎしりか、自分のように力のない者がいたずらにいきり立っても仕方ないことだが、こうなれば、自分のまわりだけでもささやかな努力をするしかない。
 私たちはこの先、何年、地球の上で生きるか分らないが、生き残りをかけたサバイバル作戦は地域でこそ展開できそうだ。幸い、わが秋田県などは食糧環境もそれほど悪くはないはずだし、生命に関わる災害も少ない。そうした利点に頼りながら生き延びるしかない。
 それにしても、このところの空梅雨のような天候が恨めしい。降ってほしいところに雨は降らず、一方では岩手・宮城内陸地震の被災地のように大雨や水害の被害にびくびくしているような災害列島である。その心痛は察して余りあるもので気の毒に思う。
 天はまるで現代の私たち人間に大きな試練を与えているようである。「天災は忘れた頃にやって来る」の名言を残したのは地球物理学者の寺田寅彦である。栗駒山麓で大地震があった日、私は白神山地にいた。その時はただ驚いただけであったが、災害はいつどこで遭遇し、自分の身に降りかかるか分らない。そうした突発的襲撃に日々備えを怠らず、ある種の覚悟をしておく必要はありそうだ。

『日輪の山』岩手山