文化遺産
No.70
田沢疎水(抱返り頭首工)

仙北市角館町大広久内など

 かんがい用水を目的とした人工水路の田沢疎水は玉川と田沢湖の調節水を有効に利用し、仙北平野に導入したことに始まる。玉川の豊富な水を利用して仙北地域の原野を開墾することは秋田藩時代からの課題であった。藩の開墾事業としては、文政八年(一八二五)に白岩村(現仙北市)広久内(抱返り渓谷)に頭首工を設け、一〇年かかって延長三三キロの素掘水路を引いた記録がある。しかしそれは強酸性の玉川毒水や洪水などによって次第に漏水、決壊、埋没し使用不能となっていた。

 その後の田沢疎水は大規模国営開墾事業として昭和一二年(一九三七)から同三八年(一九六三)までの工事で、開田約二三六〇ha、開畑一九〇haを造成した。その後、田沢疎水事業区域の東部に第二田沢疎水国営事業が着工され、昭和四五年(一九七〇)に完了している。これは地域農家の経営規模の拡大を図るため、農地に必要な水源施設や水路、農道などの基幹工事がなされた総合開拓パイロット事業であった。これによって玉川の水が幹線用水路を通じて新たに引かれ、輪換田約七七〇ha、永久田約一七〇haが造成された。  さらにその後、導水路など水利施設の老朽化がはげしく維持管理が困難となったため、全面改修と圃場整備を合わせた国営田沢疎水農業水利事業が昭和五四年から始まった。その計画は地域約三八〇〇haの農業用水の確保と圃場整備による農業経営の近代化と営農合理化を図ったものである。田沢疎水の水路は抱返り周辺や仙北平野の各地で見ることができ、第2田沢疎水が通る大広久内沢水路に竣工を記念した根本竜太郎(秋田県選出代議士)の名で「萬古豊穣」と書かれた黒御影石の銘板が残されている。

(取材・構成/藤原優太郎)