随想

「アンプラの里」余話

酢屋 潔

 昨年の暮、私が少年時代に過ごした集落のよしなし事を書いた「アンプラの里」を出版したが、事情があって一気呵成に仕上げてしまった。今読み返してみて、もう少し丁寧に書けばよかったと悔いている。
 以下は「アンプラの里」に付け加えたい事柄を含めて、まつわる諸々の事を書き連ねてみたいと思う。
 はじめに新築家屋の上棟式が出てくるが、この家は昭和十七年頃、この家の者が秋田市に引越しをしたので解体して舟で土崎まで運び将軍野に移築された。その家は終戦後まで建っていたが、この本の終り頃に生まれたあの赤ん坊が成長して一人前になってから今風に改築されたので昔をしのぶよすがはない。
 小学校は戸賀の坂を下って左側の海辺に建っていたが平家だった。真中に体操場があり、その床は木目が浮き出ていた。生徒達は毎日雑巾がけをするのであるが、何分砂が侵入するのでまるで紙やすりをかけた状態で木目が鮮やかさを増すのである。校長はことある度にこの木目のように我慢強く雄々しくなりなさいと訓示をした。ところが我々のクラスが体操の時間に一列になって走っていたら床が落ちて生徒が大怪我をし大騒ぎとなった。早速応急修理をしたのは勿論だが全面改修の話は聞こえて来なかった。
 運動会はいつも今の八望台あたりの平地で開催された。何時頃から行われていたか聞きそびれたが、可成り昔からではないだろうか。何しろグラウンドのような敷地は何処を探してもないのだから仕方がない。八望台付近には一面に天然芝が生えているが、何という種類か葉が硬く裸足で走るとちかちかして少し痛い。いつだったかあの芝を無断で持ち出した業者が居て問題になったことがあった。八望台の展望台も今では大分古くなったが、私にとっては八望台が造られたこと自体が驚きだった。
 あぶらっこ釣りは娯楽の少ない当時の子供にとってはこよない遊びだった。最盛期には大人も混じったが、こちらは生活がかかっていた。釣り方は関東方面から見ると大変幼稚だったが遊びには丁度よかった。あぶらっこは関東でいうあぶらめと混同するが、関東のあぶらめはこちらのしんじょうのことであぶらっこはくじめの事である。塩ふりの焼魚がおいしい。
 さて、「なまはげ」であるが秋田の人でも案外お面以外は知られていない。男鹿においても集落により少しづつ行事は違う。この間、酒に酔って女湯に乱入したなまはげの記事が新聞に出ていた。観光も大事だがイメージはこわさないでもらい度い。
 この本の名前にもなっている「アンプラ」であるが、これは馬鈴薯のことで語源はアイヌ語から来ているといわれているが、アイヌ語辞典でまだ確かめていない。この言葉、男鹿の人以外は秋田の人でもわからない。当時、男鹿の馬鈴薯は男爵といって大変おいしかった。しかし、この薯から澱粉を取る作業は桶に水を入れ、その中へ馬鈴薯を入れてくさらすのでその臭いがひどく、夏にこの辺の家を訪問した人は皆この臭いに辟易したものである。

この澱粉から作ったアンプラ餅は冬の味覚で、各家夫々の味覚を持っていたが餅本体は淡泊な味でくせがない。
 入道崎へ遠足に行った時の事も書き加えねばならぬ。何故なら、この話をすると皆変な笑い顔をして本当にしないのである。しかし、これは本当の話で八十年経っても決して忘れないのである。あの悠々と汐を吹いて泳いでいる姿、今でも目に浮かぶ。日本海で生息してる鯨で一番多いのはオウバク鯨だというが、この鯨は小型なので私の見た鯨ではない。まれにツノシマクジラという鯨が見つかるそうだが、こちらは全長十メートルにもなるというから私の見た鯨と一致する。ことのついでに「よりがん」が湾に入って来た時の描写がある。よりがんは言葉の調子からみているかだと思うが、泳ぎ方もいるかと似ているのだがイメージは全然違う。あの愛敬のある姿とは全然違うものだった。くちばしもよく見えずおそろしい形相をしていた。そこで少しばかり日本海のいるかについて調べてみたが、該当するようなのは見当たらなかった。ひょっとしたら鯨かな、とも思っている。
 四年生の時担任だった明智先生は明石先生の事で、秋田中学出身である。そこで明石先生と同級生という人に偶然お会いした時、先生について聞いたことがある。当時可成り目立った生徒で、陸上競技と柔道で有名だったという。我々は先生の競走の話、柔道の試合の話を聞いて胸おどらしたものだが決して誇張ではなかったのである。
 金ヶ崎温泉は今知らない人が多いと思う。県の企業局が造った桜島荘の温泉はこの温泉の湯を引いたのである。丁度加茂と水族館のある塩戸との中間にあって、露天風呂なので夏場にお客が多く鄙びてはいるがきれいな温泉だった。
 温泉についてはもう一つ涌の間の温泉があった。この温泉は塩戸の入口にあって、誰の所有かわからないが誰でも自由に入ることが出来た。本にも書いているが、放っておくと海水が侵入してぬるくなるので若者達の手助けが必要だった。残念乍ら男鹿地震で湯が出なくなり今では跡かたもない。
 又狐の嫁入りの場面は皆眉つばで読んでいるようだ。しかし我々が見たのは本に書いてある通りで、非常に幻想的に見えたが、あのあたりは塩戸へ行く小径があるので或いは人間の提灯だったかも知れない。狐の嫁入りが現実にあり得ない事だとすればそうなるだろうが私は狐の嫁入りを信じ度い。
 付け加え度い事柄には雨乞いの儀式の場面があった。丁度二の目潟を見下ろす台地のところに〆縄を張り祭壇をもうけた場面はよく知っているが、そのあとはあまり記憶にない。神主まがいの二人の男がいんちきがばれそうになり、御供えをかっさらって逃げた話があとで伝って来た。この日を見当づけるため、測候所へ行って調べたが日日を特定するにはいたらなかった。
 さて、この本は自分の記憶にのみたよったが、今度は集落の人達から昔の話を聞いてもう一度挑戦し度いと思う。