随想
ふるさと
あゆかわ のぼる(エッセイスト)

 時々、生まれ故郷の事を思う。
 私が今住んでいる所が河辺町で、車で30分ほど一山越えた、昭和の大合併で秋田市に吸収されるまでの下浜村が生まれ故郷だから、しみじみ思うほど遠いわけではない。なにより、河辺町は平成の大合併で生まれ故郷と同じ秋田市に吸収された。
 すでに父母はなく、長兄夫婦もこの世を去り、実家は甥の代になっており、血はかなり薄くなった。
 でも、やっぱり、時々思い出す。
 私は、若い頃、結婚したらふるさとの海の見える所に家を建て、日本海に沈む夕日と築紫森という標高100m余りの小高い山を眺めながら酒を飲むような生活をしようと考えていた。
 なにより、私のペンネームの由来は、羽川という生まれた集落に寄り添うように流れる鮎川という川である。
 今見れば、小川のようなものだが、一応ふるさとでは母なる川で、鮎やイトヨという清流に住む魚もいた。
 子供の頃は泳いだし、河口ではハゼが釣れた。
 この村の自慢は、小中学校の裏手に広がる松林。ここはキンダケの山で、秋になると村の人々はキンダケ狩りを楽しんだ。
 私もした。朝早く起きて母とよく出かけたし、学校の帰り、その山を通ってくると、夕餉の食卓に上がるほどの収穫があった。
 やがて、生徒達の野外学習の場や持久走のコースとなって親しまれた。
 そこが、誘致企業用と宅地として開発されたのが昭和62年だった。総面積が252.000u。
 それが集落にとってプラスだったかマイナスだったか、そこを離れてしまった私には分からない。しかし、それにもかかわらず、過疎化は進み、例えば私が在学していた頃は1学年70人余りいた中学生が、今は全校で50人くらいで、部活は3つぐらいに制限されているらしい。
 先日、幼馴染み5人が、夫婦で1泊2日の小さな旅をした。6年前から毎年やっている事だ。
 5人のうち、生まれ故郷にいるのは1人だ。
 旅のつれづれにふるさとについていろんな話をした。
 ご存知かどうか分からないが、下浜海岸は、秋田県有数の海水浴場である。
 その下浜海水浴場をこよなく愛した小説家がいる。
『ダイヤモンドダスト』(文藝春秋)で、平成1年に第100回の芥川賞を受賞した南木佳士である。信州出身の南木は、秋田大学医学部の2期生だが、東京の大学の医学部を目指しながら果たせず、都落ちの悲哀を感じ鬱々とした学生時代を過ごすが、それを慰めてくれたのが時々出かける下浜の海だったようで、小説やエッセイによく出てくる。中で出色は『医学生』(文藝春秋)という小説に出てくるくだりである。私は、友人知人にそのくだりを刻んだ文学碑を、下浜駅前あたりに建てたらどうか、と提案している。実現しないだろうか。
 文学といえば、海音寺潮五郎がいる。この小説家が、『羽川殿始末記』(『剣と笛』文春文庫所収)という中編の時代小説を書いているが、その主人公は羽川小太郎という戦国時代私の生まれ故郷を治めた武将である。城主というほど格は上ではなく、『館』。そこの主の若い頃を書いた小説である。
 羽川小太郎にまつわる事では、ふるさとの秋祭りに、集落を山車と共に練り歩いて披露される
『羽川剣囃子』という郷土芸能があるが、これは、羽川殿が戦勝の席で舞ったのが始まりと言われ、今、市の文化財だ。
 この小説の冒頭の部分が、羽川という集落の説明で、これも絶品である。館址が整備され桜の公園になっているので、そこに、その部分を書いた文学碑を建てればいいと、これも余計な口を挟んでいる。これには、私に個人的に悔やむことがあって、平成7年、『ふるさと文学館』(ぎょうせい全55巻)「秋田の巻」の編集に末席で関わった時、この小説を入れそびれた事。勿論、それとは関係なく、絶妙な文章である。蛇足だが、乳頭温泉郷の鶴の湯を守ったのが晩年の羽川小太郎である。田沢湖周辺に羽川や羽根川姓があるのは、大きくそれと関係がある。
 もう少し歴史に関わってみよう。
 集落の外れ、鎮守の森からさらに行くと、田圃を見下ろす小高い丘に『八幡太郎義家 腰掛けの松』という、背はそれ程高くなく、大きく八方に垂れ下がるように枝を広げた、見事な松があった。歴史的な事は分からなかった。八幡太郎義家がそこまで来たとも思えない。しかし、伝説だとしても凄い。
 数年前に行ってみたら松はすでに枯れてなく、粗末ながら祠が建っていた。それにしても、奥州平泉が世界遺産に登録されようとしている時、もし、後三年の合戦にやってきた義家が羽川まで足を伸ばしていたとすれば…。血が騒ぐではないか。由来を探り標柱を建てて、改めて松を植えてもいいじゃないか。
 もうひとつ。私の好きな、いや、ふるさとの人達が今も愛している築紫森だが、登り口は館址のすぐそば、羽川小太郎の菩提寺の如意山珠林寺。この山の登山道に三十三番の札所、それぞれの寺を表す石像が頂上まで並び、それに関わる和歌、和讃というのだろうか、それを刻んだ歌碑が添えられている。たぶん百年近く経つものだと思う。
 調べたわけではないが、秋田県内では珍しいものなのではないか。集落の善男善女が、年に何回か登山道の草刈りをして、綺麗になっている。
 頂上に辿り着くと羽川という集落と鮎川の流れ、日本海を一望できる。子供の頃は、遥か北に東北パルプの高い煙突が見え、そこから煙が出ている事が秋田県復興の証しと教えられた記憶がある。
 昔は、旅人や行商人などが、羽川から神田坂という峠を越えて八田という集落に抜けた。その先が雄和地区である。今は、名ヶ沢経由で行くが、羽川から八田への道が幹線道路だった証しがあって、今は単なる農道になったその道の途中にある、だれも振り向きもしなくなった庚申塚である。こういう場合、そのままひっそりとそこに置いておけばいいのか、今メーンになった方の路傍に移せばいいのか、知識もなく、自分には全く関係がない事なのに、一人で考えている事がある。
 関係ないといえば、数年前、鮎川に帰り道を間違った鮭が遡上したという話を聞いた時、今は、生活廃水で濁ってしまった鮎川を蘇えらせるために、鮭の放流をしたらどうかと集落の人に提案をして、せせら笑われた事があるが、考えられない事じゃない。
 そんな事を、旅の途中で話し、聞き流されたり無視されたりした。
 でも、過疎化が進み、やがて限界集落。いや、もうそうなっているかもしれないわがふるさとが、これほど豊穣なのだから、それを放っておくのは勿体ない気がする。