随想
名医の条件
菅  礼子

 荘司先生はいわゆる町医者だった。往診はいつも和服姿で、エプロン姿の奥さまが看護士代わりに、聴診器や注射器、薬などのつめられた重そうな黒革の鞄を持ってついて来られた。
 ある時私は嫁入り先で三十八度の高熱を発し、往診していただいたことがある。
 終戦数年後のバラック建てで、ギシギシと音をさせながら安普請の家の梯子段を上がって来られた先生は寝ている私に先ずオシッコを持参のビーカーに採るよう命ぜられ、そのビーカーに入った尿をすかしてみられるや、「腎盂炎だね」とひと言いわれた。
 そして、薬(今にして思えば抗生物質だと思うが)を出されて六時間おきに飲むように指示して帰られた。
 熱はたちまち下がって、苦しめられた残尿感と悪寒はうそのように消え去った。帰りぎわに奥さまから、大便のしまつをする時、前から後へ拭きとるように――ということを教えていただいた。つまり大腸菌の侵入を防ぐのである。
 そんなことは、母からも学校の先生からも教えられたことはない。小学校六年になると、家庭科の先生が女性の体のしくみや生理などを教えるのだが……
 お陰さまでそれ以来あのぞっとするようないてもたってもいられないような不快感を伴う腎盂炎にかかったことはない。
 私はなぜわざわざこれを書く気になったかというと、同じ症状で荘司医院よりはるかに大きい病院にかかったある女が、肺が順調に機能しないと診断されて、入院を余儀なくされ、一ヶ月経っても軽快しない。食欲もないというので、かつおだしで玉子がゆをつくって土鍋ごと見舞いに持って行ったついでにようすを見て、転院をすすめた。
 院長が、日頃親交のある医師だったので、そのひとの夫なる人はなかなか決断できずにいたが、「友人とのつきあいと妻の命とどちらが大切か」と私に説教されて、やっとA市のN病院に転院を決断した。そうしたところ、初診一発で「腎盂炎」と診断されたのである。
 ほどなく全快したその女に「先のお医者さんはオシッコしらべなかったの?」と訊くと「ただの一度もしらべなかった」という。
 さて、私自身のことになるが、病気の原因をお医者さんが一度で見抜かれ、助けて下さった経験は、生涯にもう一度ある。
 その当時(四十代)私はたびたび胃ケイレンを起こしていた。一年に一度が三ヶ月に一度、一ヶ月に一度となり、やがて二週間に一度という状態になった。
 一夜ねることもできず枕をタテに抱いてお腹を支え、床の上に坐ったまま激痛に苦しみながら夜を明かした私は、たまたま心臓病で入院している夫の病院に行ったついでに、自分も診断を乞うた。循環器専門の先生だったが、この際そんなことはどうでもよかった。おぼれる者は藁でもつかむの心境だったのである。




 するとその先生 飯川豊彦先生は、症状を説明する私の話を優しく根気よく聞いてくださってから、やおら、「その症状は、なにか油物を食べた時に起こりませんか?」と私に訊かれた。「あ」と思った。そういえば前日にKデパートの隣のパン屋さんで買った、ギトギトのマーガリンクリームののったでっかいケーキを二個も食べたのを思い出した。また天婦羅好きの私は、よく天丼や、いわゆるテンプラ料理を好んで食べていた。
 「そういわれてみると、そうです」と答えると先生は「それは胃ケイレンでなくて胆のう炎ですね」と言われた。
 そこでお薬をいただき、以来油ものはひかえるようにした。その時から二十数年を経過したが胃ケイレンと思いこんでいた症状はただの一度も起きないでいる。
 よく、原因がはっきりせず、病院をたらいまわしにされる人々のことを耳にする度にお二人の先生のことを思い出す。器具や検査法、新薬の次々出てくる昨今において、なおそうである。
 言わせてもらえば現代の医療、あるいは医師は、あまりに専門分野がバラバラに孤立していて、綜合的に判断する力を持たぬのではないだろうか。
 前述の荘司先生は男らしいぶっきらぼうなもの言いをなさる方だったが、患者に対して貧富の区別はしなかった。
 金持ちだからといってへつらわず、貧しければ診療代をとらなかった。だから医院の建物だってりっぱとはいえなかった。金錢というものに執着をおもちにならなかったから、奥さまはさぞ苦労なすったことだろう。しかもその診断は的確で明晰だった。対照的に飯川先生は優しく知的で温和な方だったが、病理を見抜く透徹した眼識と力量は、荘司先生と双璧であると私は思う。
 ちなみに飯川豊彦先生は、日本は初めて内視鏡を工夫創出された方で、例のみのもんたの昼刻のおもいっきりテレビ“今日はなんの日”で創めて内視鏡が日本で創出された日として先生のことが紹介されている。
 だからといって、この秋田のすべての先生が専門バカというのではない。
 中には血液検査で血小板の数値が低いのが気になるので、大病院に行って診てもらうようにとすすめて下さる誠実な先生方も数多くおられる。規模の小さな医院と大病院との連携プレイがとられるようになっているのだ。
 しかし、専門外のことでもただの一度でその病名を言いあて、適切に処方される先生というのはめったにおられない。いわゆる宝石のような存在には、先にも述べたように私は生涯に二度しかこのような先生にお会いしていない。
 いや、たった二度でもこういうすばらしい先生方にお会いできたことは至福であり、心からその幸運をよろこびお礼を申し上げたい。即ち「名医」というべき方々であろう。
 もう亡くなられたが、荘司先生の玲瓏とした和服姿が今もなつかしく思い出される。
 飯川先生は日本でも至宝というべきご存在だが秋田でご健在である。