随想
賢治の山を旅する
藤原 優太郎

 他の地方と比べて東北では湯治場と呼ばれる温泉が多い。今でも湯治は行われているが、私が温泉を訪ね歩くようになった1980年ころと比べてみると、湯治客は激減している。特に80年代の後半から目に見えて減りはじめ、バブル経済の崩壊した90年代で、湯治の衰退が確かなものになったように思う。
 その原因は、人々の労働環境、経済の変動、公共の日帰り温泉施設の増加など、いろいろな要素がからみあっているが、もっとも大きな要因としては、農家の方たちをはじめとする第一次産業従事者の生活様式、生活サイクルが大きく変わったことが挙げられる。
 正月湯治にはじまって、寒の湯(大寒のころにお風呂に入ると風邪をひかないといわれた)、春湯治、田植え前の湯、早苗振りの湯(田植えが終った後の慰労を兼ねた)、泥落としの湯(泥の中での田植えは体が冷えきってしまうので、その冷えた体を温めるために温泉に行った)、そして丑湯治(7月の土用の丑の日に温泉に入ることが、特に東北では盛んだった)、盂蘭盆の湯、取り入れ前の湯、刈り入れ後の湯、秋湯治、冬湯治…。
 農繁期と農閑期を巧みに使い分けたこうした温泉の全年的利用は、東北だけではなく、かつては日本各地で行われていた。しかし、これまで長い間かけて培われてきた独特の湯治文化も、湯治客の減少で徐々に廃れ、失われつつあるのが現状である。
 東北の湯治場では、今でも自炊宿が普通にみられる。かつて日本の宿は木賃宿と旅籠屋に大きく分かれていた。旅籠は食事を提供する宿のこと。木賃というのは薪代のことで、自炊するために薪で火を焚くことからそう呼んだ。湯治するには何日も、時には1ヵ月も滞在するわけだから、食事代を払っていたらとてもお金がもたない。そのため温泉宿は木賃宿が多かった。
 車がまだ普及していないころ、人里離れた山奥にあるような温泉には、米、味噌、醤油はもちろん、食器、調理器具から蒲団にいたるまで馬に背負わせて長い道のりを通ったものだが、その場合、燃料の薪も持参すれば宿に払うのは場所代だけでよく、木賃さえ必要なかった。東北の温泉はこうした自炊を主とした制度によって発達した歴史があるので、自炊部と食事付きの旅籠部(旅館部)の料金は大きな開きがある。
 今は古くからの湯治宿であっても自炊部だけというところは少なく、旅館部と併設させているところがほとんどだ。最近の平均的な温泉宿の1泊2食付き料金は、だいたい10,000円〜15,000円くらいが相場のようだ。ところが自炊部に泊まると2,500円〜4,000円ほどで、旅館部の約4分の1という安さ。やはり旅籠のほうが儲かるのか、当初は自炊部のほうが規模が大きかったところも、一般客の増加に対応してどこも旅館部が自炊部を凌駕するようになっている。自炊部は旅館部とちがって廊下と隔てるのは明かり障子、隣室とは襖仕切りで区切っている部屋も珍しくない。鍵もかからず声も筒抜け。防犯意識が高く、プライバシーが気になる現代人が利用するには抵抗感があるのも、影響しているのかもしれない。



 ただ、旅館経営で一番経費がかかるのが仲居さんなどの従業員の人件費。なかでも板前さん。腕のいい料理人は高給取りなので、食事に力を入れている宿であればあるほど経費もかかるというわけである。私は温泉宿で出される品数がやたらに多い料理が苦手だ。食べきれなくて残してしまう場合が多いので、料理にお金を使わずに、その分宿泊費を安くしてくれたらいいと思うのだが…。
 自炊部でプライバシーがないといえば、相部屋も湯治客が多かったころは当たり前であった。初めて会った見ず知らずの他人同士が、狭い部屋の中で何日も寝起きをともにするなんて、とてもできないと思う方もいるだろう。だが、かつてはそれが普通で、相部屋になったのをきっかけに毎年の湯治にしめし合わせて来るようになったり、家族ぐるみの付き合いに発展して、親戚、兄弟のように仲良くなったという話を何度か耳にしたことがある。現在では相部屋を勧める湯治宿は、玉川温泉(仙北市)など一部の人気宿を除いてほとんど見られなくなった。

 湯治場で見られなくなったものは、混浴も同様だ。私が盛んに温泉を訪ね歩いていた25年前ころは、湯治場は混浴が普通で、むしろ別浴のほうが珍しかったくらいだった。村の共同浴場も混浴が多かった。そうしたところでは、お年寄りだけでなく結構若い方も入浴していて、それが特別なことでも何でもなく、混浴を問題視したりすることもなかった。
 それが80年代の終わりころになると、バブルの狂騒の中で温泉ブームというのが始まって、若い人たち、特に女性たちが湯治客以外は見向きもされなかった山奥の辺鄙な温泉にまで出かけるようになった。私が20代のころは、温泉へ行くのは年寄り臭いことと思われていて、今のように若い女の子が温泉めぐりをするなんて考えられなかったものである。
 若者たちだけでなく、それまで温泉に興味がなかった中年女性、主婦の間にもブームが広がっていった。ただし、私のこれまでの経験では、若い女性よりも、むしろ中年女性のほうが混浴に対する拒否感、抵抗感が強いように見える。テレビ、雑誌などのマスコミの影響もあって、混浴目当てという不純な目的で温泉にやって来る連中がいたり、そんなこんなで80年代末から90年代にかけて、混浴だった浴槽を半分に仕切ったり、新しく女性用の浴槽を作る温泉宿が急増、あっという間に混浴風呂が姿を消してしまった。
 青森県八甲田にある酢ケ湯温泉には、千人風呂という有名な混浴の大浴場がある。その名物風呂での男性客のマナーの悪さが問題となり、混浴の維持とマナー改善に腐心しているということが、昨年、地元の新聞に大きく取り上げられていた。長年、酸ヶ湯に通っている湯治客たちが「混浴を守る会」を発足させ、館内に「異性入浴者は好奇の目で見るべからず」という看板を設置し、マナーを呼びかけているという。以前には考えられなかったことである。
 混浴は日本人の美風のひとつであり、東北の湯治場では確かに混浴文化というものが存在していた。しかし、現実問題としてこのご時勢に混浴を維持していくのは難しい。酸ヶ湯の千人風呂などのように、構造上どうしても別浴にできないところは、女性専用時間帯を設けるのがここ数年の傾向となっている。このままでは純粋な意味での内湯の混浴は、近いうちなくなってしまうだろう。老若男女が湯船のなかで地元の民謡を歌いあう、そうした東北の湯治場ならではのリラックスした混浴風景が失われてしまうのは、大変寂しいことではあるが、これも時代の趨勢であろうか。