随想
八郎太郎伝説と
  「八郎の宿」
永井 登志樹

 

 昨年の秋から冬にかけて、秋田県における環境共生型地域づくりに関連した報告書作成のため、八郎太郎伝説について調査をする機会があった。
 八郎太郎伝説とは、十和田湖、八郎潟、田沢湖を舞台に繰り広げられる湖沼主戦争の物語だが、この話はまた、青森・秋田・岩手の3県にまたがるスケールの大きな三湖伝説としても知られている。ただし、三湖伝説は広い地域に散在していた数多くの断片的な物語や後日譚などが集められ、後に一編の物語として人為的に仕立て上げられたものである。
 三湖伝説では田沢湖の辰子姫と恋仲になった八郎太郎は、毎年冬の間は田沢湖で暮らすようになり、そのため八郎潟は冬は凍結して年々浅くなり、田沢湖は深い不凍湖になったのだとされている。この筋立ても、もともとは独立した物語であった辰子伝説を十和田湖(南祖坊と八郎太郎)や八郎潟における八郎太郎伝説と結びつけたものといえそうだ。
 ただ今回、江戸時代の古い文献を調べてわかったことだが、八郎潟(八郎太郎)と田沢湖(辰子)との結びつきは意外に古く、元禄年間(1688〜1703)の編纂とされる『吾妻むかし物語』では、八郎の棲み家は仙北郡の潟(田沢湖)にもあり、1年おきに両湖の間を往来するとある。寛政9年(1797)に著された『津軽俗説選』でも、春彼岸の中日に冬の潟(田沢湖)より八郎潟に来て、秋の彼岸の中日には戻るとあるので、少なくとも江戸時代の後期には、田沢湖にも龍女がいて、八郎が通っていたという話が人口の膾炙にのぼっていたようだ。
 そのことを裏付けるように、嘉永年間(1848〜1858)編纂の『絹篩(きぬぶるい)』には、八郎潟から田沢湖までの道筋に八郎太郎が宿泊する「宿」があると記されている。今回の調査で興味深かったのは、八郎太郎が辰子のもとへ通い婚する際に立ち寄った「八郎の宿」と呼ばれるこうした家が、現在も何ヵ所か残っていることであった。
 大仙市(旧協和町)船沢の菅原家は、現当主より5代前の七右衛門という人が当主の時に八郎太郎の定宿であったという。ある時、寝姿を見てくれるなとの願いをきかず、七右衛門の老母(女中ともいう)が八郎太郎の寝姿を見たところ、とぐろをまいた大蛇の姿になっていた。それ以来、八郎太郎は七右衛門家に立ち寄らなくなったという。ここで語られる「見るなのタブー」は伝説や昔話の類型のひとつで、寝姿を見てしまって以降、家運が傾いてしまうということも含めて「八郎の宿」伝承では共通している。八郎太郎が宿をとったころの菅原家は、近隣では並ぶ者のいない大地主であったというが、「八郎の宿」の多くはその地域の旧家であることも共通項で、各家とも話の筋は同工異曲だ。
大仙市土川の佐々木家には、八郎太郎が伝授したという突き目に効く目薬が伝わっている。実際に見せてもらったが、うす茶色の粉末の薬で、当主か相続人が作ったものでなければ効かないとされ、現当主の祖父が蜂に目を刺された時、この薬をつけて治ったという。佐々木家のほか大仙市大浦の高橋家でも、八郎太郎が宿をとったお礼として授けたという痔の秘薬が伝えられている。
 仙北市北沢の仙波家も八郎太郎の定宿で、屋敷の砂は田沢湖白浜の砂と同質のもので、八郎太郎が田沢湖からの帰路、身体から落としたものだという。北沢集落の西はずれには八郎淵と呼ばれるところがあり、八郎太郎はここを水鏡にして身支度をし、足を洗ったと伝えられている。昔は今よりもっと深く大きな淵で、ここに落ちると3年以内に死ぬといわれたとか。

 八郎太郎が田沢湖に辿り着く前の最後の宿として泊まったのが仙北市西明寺の赤坂吉右衛門家といわれている。吉右衛門家は肝煎りを勤める豪農で、この家に毎年決まった日に宿をとる旅の若者(八郎太郎)がいた。若者は「私の寝姿を見ないでくれ」と言って休んだが、家人が約束を破ってその姿を見ると、大きな蛇が梁を枕にいびきをかいて寝ていた。翌朝、若者は約束を破ったことをなじり、二度と吉右衛門家を訪れなかった。その後吉右衛門家は家運が次第に傾き、桧木内川の洪水で流されるなどして、ついにその後が絶えたという。今、桧木内川左岸の吉右衛門屋敷といわれる場所には、吉右衛門家の氏神であった稲荷大明神と竜神・八郎を合わせ祀った小さな祠だけが建っている。
 八郎太郎が旅人に姿をかえて泊まったとの伝承が残る家は、私が今回調査した以外にも数ヵ所あることが知られており、その道筋をたどると八郎潟―新関(旧昭和町)―久保田(今の秋田市中心部)―仁井田(秋田市)―船沢(旧協和町)―上淀川(旧協和町)―大浦(旧神岡町)―土川(旧西仙北町)―中川(旧角館町)―西明寺(旧西木村)―田沢湖というコースになるようだ。
 八郎太郎が田沢湖にやってくるのは毎年決まっていて、霜月(旧暦11月)9日の夜であった。桧木内川から潟尻川を上ってきて、辰子の棲む田沢湖に入るこの日、湖畔の潟尻集落の人々は氏神の明神堂に集まってお祭りをした。この時、八郎太郎が湖に入る水音をうっかり聞くと命がなくなるといわれていたので、夜を徹して酒を飲んで歌い騒いだものという。
 潟尻明神堂(浮木神社)では現在も11月9日に霜月祭りが行われている。昭和30年代ころまでは旧暦で行われていたので、吹雪の夜に一晩中お堂にこもって飲んだり歌ったりしたこともあったというが、現在はかつてのように大騒ぎすることはなくなった。昨年、私が調査のために訪れた時には、神主さんが祝詞をあげた後に直会をして、2時間ほどで解散する静かな祭りとなっていた。ただ、潟尻集落の人々には今でもこの日の夜に八郎太郎がやってくると信じられているようで、居合わせた男の子がお父さんらしき人に促されて、(音を聞かないように)耳をふさぐ仕草をしていたのが印象的であった。
 「八郎の宿」とは何か、何を意味しているのか、はっきりと指摘することは難しい。ただ「八郎の宿」を伝承する人々に接して感じたのは、八郎潟の主である八郎太郎は尊い神であり、それとの関わりは誇りであるという思いを誰もが抱いていることであった。
 八郎太郎は無敵の怪力を持ちながらどこかぼうようとしていて、荒々しくも素朴な大地の精霊としての純真な若者のイメージがある。その人間くさいイメージは、永遠の美を求めて龍に変身した田沢湖の辰子とも共通する。そしてこの物語が生まれ今日まで伝えられてきた背景には、大自然に対する畏怖心や、龍神信仰、山岳信仰、水の信仰など日本の古くからのアニミズム的な民間信仰が背景にあるように思える。それが架空の存在でありながら身近で親しみをもった存在として、八郎太郎が今も秋田の人々の心の中に生き続けている大きな要因なのであろう。