この製糸工場が建造されたのは明治45年(1912)前後とされているが、大正7年(1918)操業停止された後、隣接する土蔵とともに米の集積場となっていたという。旧製糸工場の建物は桁行18間(32.7m)、梁間4間(7,3m)、72坪(約240ha)の規模であった。寄棟造鉄板葺の屋根で、棟には越し屋根を通しその外壁側面と主屋の庇下部には採光のガラスが嵌め込まれた高窓が四囲に設けられていた。これは製糸工場の採光ばかりでなく、操糸釜が置かれた操糸場の換気のためでもあった。
建物の小屋組は、対束式の木造トラスで、クイーンポスト間に方杖が筋交いに入れられ二重梁となっていた。また、越し屋根部分は束立で、主屋の桁はトラス部分も含めて水平に通す和小屋風の洋小屋となっていた。建物の北側には框(かまち)扉が残され、当時流行した擬洋風の名残も見られる。
養蚕や製糸業が日本の近代化産業の花形として脚光を浴び、秋田県内でも各地に養蚕業組合が設置されている。製糸、織物業の多くは地元資本によって経営され機械製糸工場は23ヶ所を数えたものという。角館製糸工場は大正7年に操業停止しているが、この時期は養蚕技術の普及と機械製糸工場の拡大を目指してさまざまな試みがなされ、県内では特に湯沢町(現湯沢市)がその先進地となり養蚕、製糸業近代化の拠点となっていた。
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