随想
相撲の品格
菅 禮子(作家)

 昭和十年代、玉錦という人気の高い関取がいて、たしか大関だった?と思うが、双葉山の好敵手だった。その玉錦が場所中急性盲腸炎をひき起こして、あっけなく亡くなり、人々を驚かせ、悲しませた―わたしの相撲に対する関心は、このできごとを新聞記事で読んだことから始まる。人気絶頂の刻に突然、その人を襲った恐ろしい運命にわたしは衝撃を受けた。―諸行無常―子供ごころにそんな感想を抱いたのかもしれない。
 その頃、たまたま京城(現在の韓国・ソウル)で巡業による相撲の興行があった。場所が学校のすぐ傍(今の南大門市場)だったこともあって、先生に引率されて観に行ったことがある。あてがわれた席は大テントの天井棧敷のような高い所で、はるか下の顔も名もわからぬ幕下力士の取組がえんえんと続くのにすっかり倦きてしまったわたしは、先生に「おしっこに行かせて下さい」とお願いしてその場から脱出した。
 すると出口までの渡り廊下の途中に、巨きな関取が紺に白い波を散らした浴衣を着て仁王立ちになっていた。行き交う人びとは皆笑顔で立ち止まっては、関取の巨体を触ったり、撫でたりしている。横綱の男女の川だった。その、少し後方にもう一人同じように浴衣姿の関取がいて、こちらの方はやはり横綱の武蔵山だったのだが、今でいうイケメンのこのお角力さんにわたしは好感を持った。ふとなにかにぎやかな声がするので好奇心にかられて天幕の裏側に回ってみると、二、三人の関取が、こちらは裸にまわしを締めた姿で、空の酒樽を伏せたような物に腰かけており、その周囲を島田髷に真白に首筋を塗った芸妓衆が取り囲んで盛んに嬌声をあげている。わたしをはじめ脱出組の小学生たちがもの珍しげにその場を眺めていると、黒塗りの下駄に、着物の褄を高々と持ち上げたひとりの芸妓が「うるさいねえ、この子らは。ここはお前たちの来る所じゃないよ、あっちへお行き!」いきなり片手でひしゃくをとりあげて、樽の水を掬うと、わたしたちへ向かってパアッと撒き散らした。
 ―芸者って、美しい着物着てお人形さんみたいなのにずいぶんきついんだぁーというのが、その時のわたしの感想である。
 数年後、横綱照国を中心にした相撲興行がやはり京城であった。秋田県出身ということで、秋田県人会(京城在住の秋田県出身の人々でつくっている会)が照国を招待して一夜宴会を開いた。その会に参加した父が帰宅しての第一声―
 「あんな綺麗な相撲取りは見たことがない!」
「綺麗だ!」「綺麗だ!」盛に「綺麗」を連発していた。わたしは照国という横綱を見たことがないから、いかにも感に堪えないような父のその感嘆詞だけが記憶に残っているのだが、まさかその照国とこのわたしが縁戚になろうなどとは“神のみぞ知る”である。


 照国―秋田県雄勝郡秋宮出身・本名菅万蔵、実はわたしの婚家先の菅家の舅 吉四郎は菅万蔵の実家と別家同士とか、この話は姑から聞かされた。舅本人が寡黙で自らを語らない人だったから詳しくはわからない。
 ところで六十九連勝中の双葉山が安芸海に敗れた瞬間のラジオによる実況放送を、偶然わたしは聴いていた。
 「座布團が飛んでおります!座布團が飛んでおります!」館内の大喚声と熱狂に近いアナウンサーの声は、今も耳の奥にある。
 ただ、なぜ座布團が飛ぶのか、わからなかった。今なら、テレビの画像でその様子がよくわかるのだ。照国の綺麗さも、きっと心に焼きつけられたに違いない。
 ふと気づいたのだが、テレビの映像でこそわかることが、もう一つある。
 それは、“心・技・体”の三つを条件とする角界における心の部分―即ち相撲の品格というべきもの―である。
 勝った力士が蹲居(そんきょ)して行司から勝ち名乗りを受けるその刻、力士が右手を斜め前にのばす。この仕草をなんというのか、浅学にしてわからないが多くの力士のその場面を観ていてその所作が目に止まるようになった。最初に「美しいな」と思ったのは“隆の若”である。胸を張り、さっとのべた右手がぴたりと決まって若々しく初々しく心を惹かれた。近頃その所作に隆の若を凌駕して心を奪われる力士がいる。
 しこ名は“豊真将”。全体に悠容とした挙作動作は気品に溢れ、さっと右斜下につき出す手の指一本々々に神経が行き届いていて、一挙手一動作、真に美しい。さらに言えば“男の色気”というべきものを、たった一瞬の動作に感じさせられる。前記二人に比べて他の力士はどうだろうか?私の独断と偏見によって敢えて言わせていただくと朝青龍。毎度のこと、わざわざカメラ目線でもって「どうだ!」と言わんばかりに大見得をきってみせるのが草原を駆ける若者の雄叫びに似てほほえましくもあるが、いささかうんざりさせられる。他の力士達も勝ち名乗りを受ける時、まことにぞんざいに手を振り回してそそくさと立って行く。ただ、いくら礼儀正しくても強くなくては三条件に外れるがしかし、強ければいいというものでもない。裸をさらしたこの相撲の品格というものは、綺麗な肌でもなく、肉体美でもなく伝統に裏打ちされた技であり、所作である。たくさんの人々がテレビでこの場面々々を観ている筈だが、ここに上げた所作にうかがえる豊真将の品格と、清々しい男の色気、内面の剛毅さに気づいて観ているひとが何人いるだろうか?ほめすぎて“ホメ殺し”にならねばよいが……。