随想
イザベラ・バードと
   明治の旅行家たち
藤原 優太郎

 1月の終わり、所用があって山形県金山町に行ってきた。国道13号が通る最上地方の小盆地にある金山の里は古くは街道の宿場として発展した町である。ここは明治の初め、日本の北国を旅した英国人女性イザベラ・バードが逗留した際、何かと印象深い思いを残した土地であった。
 齢47歳、ちょっと小肥りで紅毛のご婦人が書き残した旅日記『日本奥地紀行』は、異邦人の紀行本名著として今も多くの人に愛読されている。これは横浜港から日光、新潟、置賜盆地を通ったあと羽州街道を北上して北海道に至るまでの旅紀行で、本国の妹に宛てた私信第1信〜第47信をまとめたものである。
 明治11年(1878)というと今から129年前のことである。当時はまだ外国人がすべて自由に日本国内を旅行できる状況ではなかった。しかし、日本政府は明治7年に「内地旅行規則」を定め、外国人にはいわゆる居留地から十里以内の遊歩区域を越えて内地へ旅行することを条件付きで認めるようになっていた。
 開国間もない当時の日本の辺境を、それも外国人女性が単身で旅行するということは大変な勇気を要したものであろう。この年、バード女史はアメリカから上海経由で横浜に上陸し、東京の英国公使館に滞在した後、北国旅行に出発した。通訳兼従者の伊藤某という青年ひとりを伴っての勇気ある冒険旅であった。
 7月16日、金山からの第19信では山形から最上金山までの様子を克明に描いている。
 「新庄から険しい尾根を越えて非常に美しい風変わりな盆地に入った。ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド形の杉の林で覆われ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているように見えた。その麓にロマンチックな雰囲気の金山の町がある…」
 半円を描くように盆地を取り巻く山は金山のシンボルともいえる薬師山、中の森、鷲鷹森などの尖り山で並んでいる。ここに来る直前、彼女はスズメバチとアブに襲われひどい炎症を起こしていた。そこで伊藤青年が新庄から医師を呼びその手当てをしてもらうため、金山に3日ほど滞在している。病気などのトラブルに遭い、そこで受けた親切がもとでその土地の印象が良くなるのは珍しくない。とにかくバード女史が感じた見知らぬ土地の好印象に金山の人たちは爾来、確かな自信と誇りを持って今に受け継いでいる。


 山の風景が奇異に見えた町、金山は神室山地から流れる清冽な流れを用水として町に引き入れ、特産の金山杉を使った白壁造りの住宅を建てるなど環境美化に力を注いでいる。
 どこにもあるようなありきたりの観光政策など施さず、あるがままの歴史風景を暮らしに取り入れた金山は、まさに東北の異境アルカディアといっても過言ではない。
 ついでながら、この明治21年頃というのは山好きの自分にとって別にまた意味のある年となっている。同じ時期、幕末から明治15年まで東京の英国公使館で通訳、日本語書記官を務めたアーネスト・サトウという外交官がいた。奇しくも日本の各地を旅していた彼は、バード女史が金山を通過する前後、後に日本アルプスと命名された後立山連峰の針ノ木峠を越える山旅をしている。東北地方には縁がないが、彼が著した『日本旅行日記』などを見ると、外国人からみて、いかに当時の日本が不思議な魅力を持っていたかがよくわかる。日本の山岳史上、名高いW・ガウランドという人は外国人で初めて槍ヶ岳に登った登山家で、日本アルプスと命名した人で、アーネスト・サトウの友人だった。
 このように近代スポーツ登山として日本アルプスの山々に最初に足跡を残したのは明治初期の来日外国人たちであった。彼らが残した日本での幅広く奥深い行動記録を目にすると、英国人の冒険、探検好きの国民性が分かって興味深い。こんどはアーネスト・サトウの著作の中で、知的冒険の旅に出かけることになりそうな気がしている。

随想
金山のシンボル、薬師山の山並み