文化遺産
No.55
院内銀山

湯沢市雄勝院内

近代文化遺産
JR院内駅が併設された現代風の異人館
 江戸時代初期、慶長十一年(一六〇六)、村山宗兵衛らによって発見され、最盛期にはわが国最大の銀山といわれたこともある。江戸期文化年間(一八〇四〜一七)、秋田藩が直接支配する直山(じきやま)になってから生産量が増大。天保元年(一八三〇)から明治元年(一八六八)にかけて三十九年間の産銀量は一〇三トンに達した記録があるという。
 銀山が栄えた頃、院内銀山町は戸数四千戸、人口一万五千人で、当時の久保田の城下町をしのぐといわれるほどの隆盛をきわめた。

 院内銀山は明治八年(一八五七)に工部省管轄の官営となり、ドイツ人技師を招いて先進技術を導入、巨額の費用をかけて経営の近代化が図られた。明治十四年(一八八一)、明治天皇の東北御巡幸の折、自ら五番坑に入られ、坑内や諸工場を巡覧されたことから、坑道は以後「御幸坑」と呼ばれた。この時の光景が明治神宮外苑の聖徳絵画館に壁画として残されており、巡覧した九月二十一日が「国の鉱山記念日」にされている。
 院内銀山には御幸坑のほか、山市堅坑、早房坑、不動坑などがあり、水抜き専用の大切疎水坑道もあった。
 その後、明治十七年(一八八四)に古川市兵衛(一八三二〜一九〇三)に払い下げられたが、この時期、しだいに産銀量が増大し、わが国を代表する銀山として再び栄えた。明治に入ってからの総生産量は銀四〇〇トン、金一トンに及んだ。銀山はそれから古川合名会社を経て古川鉱業(株)に引き継がれ、昭和二十九年(一九五四)まで中小鉱山として稼業したが最終的に休山となった。
 院内銀山跡は現在、秋田県指定文化財となっているが、明治初期、十分一にドイツ人技師の住宅跡(異人館跡)の石垣だけが残されている。そして後に、JR院内駅の敷地に煉瓦造りの近代的な異人館が復元されている。

(取材・構成/藤原優太郎)