随想
美術の秋
酢 屋  潔

 今では週一回本屋まわりをするのが楽しみとなっている。しかし、どうも今のベストセラーとか、芥川、直木賞などを得た作品は読む気がしない。何うしても明治、大正、昭和の作品につい目がいってしまう。特に文庫本は値段も安いし気軽に読めるので新刊の出るのが楽しみだ。
 そんな時ふと本屋の片隅においてある塗り絵の本を見つけた。タイトルに「大人の塗り絵」とあったので興味を覚えた。早速二冊購入、家に持ち帰り塗る準備にかかった。水彩の絵具はごみをかぶって埋もれていたのを取り出し、筆やその他のこまごましたものもついでに探し出していよいよ何十年ぶりかで筆を取ることになった。チューブの中の絵の具は長年使わなかったので硬くなったのもあり描くまでがたがたしたが何うやら筆を下すことが出来た。
 先ず題材は花からはじまった。花は色がきれいな上輪郭が画然としているので初心者には手頃である。はじめ紫の朝顔からはじめたが葉の緑とのコントラストが良い。白い紙に次第に色彩豊かな植物の姿が現れてくるプロセスは心地良かった。一応仕上がったので見本と並べて観察してみる。似て非なるものというか、どこか違う。一番気になるのは色彩であった。最初咲いた花と後から咲いたのでは同じ色でも少し違うという。この違いを出すのはなかなかむずかしい。しかしこまいことにこだわらず花の絵は十枚ほど描きあげた。免に角輪郭が出来ているのでデッサンに気を使うことがない。ひたすら色を塗ればきれいな花が白い紙に現れてくるのである。花の中で変り種は紫陽花、ほおずき、向日葵で夫々特色があった。ほおずきは同じダイダイ色でも三段階に分けねばならず、向日葵は中央の種が根気のいる仕事になった。紫葉花は粒の変化が見せどころだろう。
 花が一応終わると印象派の絵に取りかかった。花を描いた流れでルノアールの「アネモネ」を描くことにした。
 この絵は花瓶に生けてあるアネモネの花を描いたもので花弁は赤を基調にしているものの印象派独得の複雑な色彩となっている。白を可成り用えているので水彩で描くのはむずかしい。背景は紫を基調にした複雑な色彩の混合であるが、これは水彩にとってむずかしいものでない。一つが完成すると次が描きたくなる。そこでセザンヌの静物画「砂糖壺と果物」に取りかかる。描き易い題材なので仕上げもうまくいった。この絵の真髄はさて置き、見本と並べ大変似ているのでひとり悦に入る。
 こうして毎日一枚づつ描きあげ一冊が終わった。ここで一寸休み今迄自分の描いた絵と見本をじっくりと見較べる。自分が上出来と思っていた絵もじっくりみれば欠点ばかり目につく。しかし名画の面影が少しでも残っておればそれはそれで楽しい。
 セザンヌの静物のあと印象派の名画を次々と描いた。その中でむずかしかったのはルノアールの「レースの帽子」だったが白を丹念に残したらいくらか似たものが出来た。ゴーガンのタヒチの絵は現地人の家の屋根の色が全体を支配した。ダイダイ系統で強烈な色彩を出そうと頑張ったがどうしても出来なかった。
 さて作品を並べて見ているうちに折角描くからにはもう少し大判で額にいれて飾るようなのを描き度いと思うようになった。そこで先ず近くのサティに探しに出かけた。三階の書籍売場には小さいサイズばかりだったが文具売場の一郭に少し大判の塗り絵があった。そしてストレスの大、小に分れて展示されていた。よく見るとそれは発行元が絵の具の会社でくれよん用だった。水彩用の大判もあったがなぜか浮世絵のものばかりで下絵も線でなく淡墨の面となっている。塗り絵もここまでくればそのうちもっと大きく、バラエティーの豊んだものも出るだろうとその場をあとにし、ついでに同じフロアの絵を展示している小さな店に寄った。


 この人の絵が好きで今迄画集などを買って、それを見本に何枚も模写をしたものだ。彼の絵は対象を独得の目で観察し自分の中で画構築する手法で雑念を払ったように爽快であり見るものを幸せにしてくれる。この絵は前景と後景がグレイの濃淡でくっきりと分けられ、前景には赤のトルコの国旗があちこちにちりばめられアクセントになっている。朝か夕方の一時のたたずまいと思われるが空と海のピンクの色によりイスラム寺院を中心としたイスタンブールの街がシルエットのように浮かんでくる。
 この絵の前でしばし足を止めたあと角を曲がったら石井崇という画家の展覧会が開催されていた。最初の作品の色彩が強烈だったので説明の文章を読んでみたら南スペインを放浪中に描いた作品とあったので興味を覚えた。
 彼は1942年東京生れ、東京芸大を出て紆余曲折、昭和50年(1975)単身スペインに渡りセビリア近郊に居をかまえテキヤ稼業をし乍ら絵を描いた。この展覧会にはその時の絵も何点か入っているとのこと。
 彼が書いたものによると「人が人らしく生きるとは、人と自然とのあるべき姿と考え乍ら絵を描いた。その答の鍵がスペインの村にかくされているようだ」と。人が絵を描く理由は人夫々であろう。能書きはさておき作品を見てみよう。
 先ずはじめに目に付くのは居をかまえた村「アルプローラ」である。先ず山がピンクにぬられているのに驚く。山の凹面は青かかったグレイ、民家の屋根はグレイの濃い色、壁は白、地面は朱に近いダイダイで山と平地の赤傾向の色が画面を圧倒している。
 中に入るとトレドの「満月」の絵が人目をひく。はじめセルシアンブルーがイエローオーカーのトレドの街を包み込んでいるのを見た時お伽話の一場面のような気がしてならなかった。題名が「満月」としてあるので、満月の夜のトレドの情景だったかと合点がいった。トレドには五回ほど行っているが夜のトレドは見たことがなかった。昼間見たトレドは古色蒼然として眠っているように見える。この絵を見て月夜に浮かびあがる蜃気楼のようなトレドの街を想像し、もう一度行ってみたい思いが込み上げてくるのであった。
 「八月」と名付けられた絵もスペインはアンダルシヤ地方を象徴にしているように思われた。八月のアンダルシヤ地方は正に灼熱の大地である。その大地を石井は燃えるような朱の色で覆っている。空は黄土色に紫、そして広々とした地平線が朱色のかなたへ消えてゆく。
 この時私はセビリアのヒラルダの塔に登った時のことを思い出した。セビリアの空はあくまでも青くはるか見はるかす彼方に地平線がかすんで見えた。その時浮かんだ未知なる彼方への旅情、遠い昔の物語りとなってしまった。
 さて見終わって安野と石井の作品を較べれば対象を再構築することは似ているものの表現は対称的だ。安野は見る人の心をやわらかくつつむような筆使いなのに反し石井は情熱のおもむくところ奔放に筆を走らせている。
 しかし、この二人に共通していることはその大衆性にあるだろう。安野はすでに有名でマスコミなどにもしばしば登場しているが石井はそれ程知られていない。それでも二人共大会場に展示するよりは小市民の集う小じんまりした会場が似合うように思われる。
 今日はたまたま好きな絵に遭って幸運だった。そんな思いで会場をあとにし図書売場丁度好みの安野光雅の新しい絵が展示されている。水彩で新しい形式の版画のようだったがそれはイスタンブールを海から見たもので聖ソフィア教会を前面に据えて後に街を控え尖塔があちこちに立っている。という真に好ましいものだった。を通ったら「美術の秋」の垂れ幕が下っていた。