随想
どうして日本は
こうなってしまったか
  ─負の原点─
菅  礼子

 1990年というと今から16年前になるが、ある団体旅行に加わって延べ11日間、アメリカ合衆国を旅したことがある。
 デトロイトで入国査証を受け、ワシントンD・C─ニューヨーク─サンディエゴ─ティファナ(メキシコ)─ロスアンゼルスと各地を巡り、行く先々で識者の話を聴く機会を得たが、その折々の感想をひっくるめて言うと、“アメリカは変わった!”ということだった。
 つまり、かの音楽映画“ウエストサイド物語”の中でプエルトリコからやってきた娘達が─♪言うことないわ…わたしはアメリカが好きよ、なんでも自由、買い物はカードでOK…キャデラックが走り、産業は盛ん…楽しく暮せるアメリカ♪と歌いまくり踊りまくるが、1990年に訪れたアメリカはそこに謳いあげられている楽しく暮せるアメリカとは全く様相が変わっていた。
 上院議員の講演、大学教授の講話、その他行先々で聴かされたのは等しく“どうしてアメリカはこうなってしまったのか?”という言葉であった。
 巷には失業者、ホームレスが溢れ、凶悪犯罪が多発、家庭の崩壊、青少年の麻薬、特に青少年層の犯罪の低年齢化が著しいという。─あいつの着ているTシャツの色がきにくわねえ─ただそれだけの理由で即、銃で撃ち殺すという、信じられないような自己中心の殺人等の諸状況をフロリダ州立大学のリチャード・ルビンステイン教授は列挙したのち「今や、人びとの心の中には、神を恐れるということが無くなっている、アメリカの為政者は“神との契約”を原点とした建国の精神に立ち還るべきだ」と延べた。
 亦、某上院議員は私達日本の旅行客を前にして「今のアメリカ社会のモラルの低下、悪質犯罪の増加、これらの状況はとりもなおさず今から十数年後の日本の社会の姿である。そして更にその十数年後には、日本に追いつけ追い越せの韓国の姿となるであろう」と予言した。この日本の未来像に対する米国上院議員の推測はピタリと的中してはいまいか…
 実は、この章は、平成15年8月1日付(第1112号)の本紙に1度「数学的言語?」と題して掲載した内容と重複する部分があるが、あれから3年、悪化する一方の日本の社会の現在に改めて視点をすえてみようというのが筆者の意図である。
 今、私達の眼前に展開する日本の社会─富裕層は豪壮な邸宅に住み、一千万円近い車を購入する等その豊かさを謳歌し、低所得層は苛剱誅求ともいうべき高額の税に喘ぐという格差社会を生み出し、ホームレス・失業者は巷に溢れ、親が子を殺し、子が親を殺す。あるいは友が友を、無頼の徒が抵抗力のない幼児を拉致、弄んだ後に殺す。
 エレベーターは開かなくなり、ストーブや給湯器で死者が出る。高層ビルやマンションの建築は、構造設計の段階で建築資材の省略をはかって儲けに走る。それがいざという時、そのビルを高額で購入して住む人々の生命にかかわるということなどは少しも勘定に入れていない。粗雑な技術そしてモラルの欠如!
 ─どうして日本はこうなってしまったのか─
 かつてのアメリカの識者たちの歎きはそのまま今の日本にあてはまるのだ。どうしてこうなってしまったか?についてアメリカのルビンステインは神を恐れるこころの喪失をあげたが、しかし、ではなぜ“こころ”が喪われたかには言及していない。
 越智通雄氏の著書『英語の通じないアメリカ』に因れば、“その原因は機能化された物質文明であり、それら洗濯機・テレビ・掃除機果てはコンピューターを産出した“数学的言語”である。パスポート・診察券・預金払出しカード・買い物カード・携帯電話それらは皆、いつのまにか、私達の背後に構築された数学的言語による高度管理化社会の産物なのだ。


 そこには“こころ”の領域と要素はない。つまり、カードさえあれば、担当との会話を経ずとも、コンビニなどで、保険金、電話料、水道料、電気代などの振りこみ、住民票も得られる。そこで交わされる「今日は寒いね」「ありがとう」などの日常会話はなくなり、人間は次第に無機質になって行く。モラルとかヒューマニズムなどは通用しない。ただ、殺すか殺されるかの世界になってしまうだろう。 麻生さんというひとを、私はその風貌、独特の“麻生ブシ”とも言える語り口をつねづね好ましく思っているが、先のテレビインタビューに於て「日本のIT産業は今やその技術力による最速、しかも最低廉の価格で世界一に躍り出ている」と言われ、亦、別の日に、総理候補者お三方によるそれぞれの“教育改革”について意見を述べられていたが、お三方も(この稿が出る時にはすでに総裁は決まっていようが)質問側の記者諸君も、これまで述べた物質文明が今日の諸悪の根源、人々の“こころ”の荒廃という負の原点になっていることに気づいておられるだろうか…
 「ワープロができますか?」というテレビ局側の質問に対して、疑似就職運動者(ニート)として出演した辰巳琢郎氏(京大卒)が「少しは打てるが、しかし私はそういった機器にふりまわされたくない」と答え、独自の物質文明の批判ともいうべき意見を展開されたのは、まさに一掬の清涼水だった。しかもそれに対して「それでは就職はできない」というのが司会者の答えだった。現社会においてはたしかにそれが真実であり、現実ではあるのだ。
 ただ筆者は、やみくもに科学の推進、産業興こしに反対するものではない。
 光ファイバー(東北大学教授・西澤潤一氏)トロン計画(東大坂村健教授)─一般にワープロ等の機器はアメリカ産のマイクロソフトが使用されているがトロンは自動車の制御装置その他に使われている。世界をリードする日本の科学者たちの目覚ましい活動は、別の意味での活力を日本の社会に与えていると思うのだ。
 以前、“東北会議”で西澤氏に接したことがあるが、これはその時、西澤さんが語られた話である。
 西澤さんは受験した仙台一中(旧制・現仙台第一高校)に落第、二中に入った。その時思ったそうだ。「ビリを走っていても、ぐるりと方向転換すればトップだー」科学の推進にしても、日常の生活にしても、この発想の転換が氏の原点となっていることは間違いないと思う。
 子を育てる親・競争社会にスピンアウトされまいとする一般社会人や学生たち、あるいは利益追求の事業家、過疎化に喘ぐ市・町・村の為政者たち、そして日本をリードする識者たちも、こういうのびやかな発想転換のできる社会土壌の育成がのぞましい。科学による便利な豊かさの追求とそれらの原点としてのこころの尊厳をどう人々に着地させるかが教育基本法の最重要課題だと思う。
 秋田は人口、経済基盤その他で全国最下位に位置しているが、西澤式発想の転換をすれば、緑の資源に恵まれ、空気は澄んだその自然環境においてトップとなる。それだけではない。
 その昔、ドイツが秋田の小坂鉱山に最新の機械を輸出するにあたって、前もってその仕様書を送っておいたところ、長い航海の末に、揚陸された機械を、狭い田舎道を馬の背に乗せて運び、いざ据えつけの段に至って、あらかじめ小坂鉱山側が送られた仕様書によって作っておいた台座に、それぞれの機械が一センチ一ミリの狂いもなくピタリと収まって、機械と共に派遣されたドイツの技師ハーグマイヤーに─こんな草深い田舎の鉱山が─と舌を捲かせた(ハーグマイヤー著・『小坂への旅とそこでの滞在』(秋田飯島製錬所蔵)に拠る)という。
 秋田は豊かな自然環境に恵まれているばかりでなく、高い良心的・知的感覚と技術力の伝統がある─ということを、日本復元力の原点としたいというのが筆者の希いである。